
池谷裕二さんエッセイ「見えないナニかを感じる」
脳から心が生まれるのか、心から脳が生まれるのか――ふざけた問いにも思えますが、いざ真剣に答えようとすると、禅問答のような泥沼にはまってしまいます。
多くの人は、物体は自分の身体の外にあって、それを目で見たり手で触ったりして感じていると考えています。それを常識として疑ってみたことすらないと思います。でも本当をいえば、私たちが感じている物体は、身体の外側ではなくて、脳の内側に存在しているのです。
脳が物体の存在を認知するためには、その物体に対応する適切なニューロン活動が生じる必要があります。もし何かしらの原因で、起こるべきニューロン活動が生じなかったら、物体を認知することはできないでしょう。物体が網膜に映っていたとしても、脳が反応しなければ何も感じない、つまり、物体は存在していないことになります。
逆に、物体が存在しなくても、なんらかの方法でニューロンを適切に活動させることができれば、あたかもそこに物体が存在するかのように感じることができます。たとえば夢――夢に現れるあの生々しいイメージは、まぎれもなく脳の内側で生み出されたものです。
私たちは皆、頭骸骨のなかに脳があることを知っています。そこから心が生まれることも知識として知っています――楽しんだり、悲しんだり、落ち込んだり、奮い立ったり、悩んだりするのは、脳の活動の結果であると。
しかし、自分の脳を見たことがある人はいないはずです。見たこともない「脳」について、その存在や機能について意識的に信じているわけです。いえ、そう認知することによって、はじめて脳が存在化するわけです。存在は脳活動そのものです。となると、脳が心を生むだけでなく、心が脳を生んでいるという側面があることに気付いていただけるでしょう。つまり、冒頭の問いは一筋縄ではいかない大変な難題なのです。
このように「存在」とは多面的です。もちろん私は、物質世界に実在しないものを否定したいのではありません。むしろ逆です。実在しないものなのに脳がその存在を認知するということは、それだけ人間にとって大事なものだから感じてしまうのではないでしょうか。
愛情、欲望、苦痛、憎悪、地位、権力......。こういうものは、単純な物質たちよりも、はるかに大事なものかもしれません。実際、ヒトという哺乳類に、人間らしさを与えているものは、まさに、このような実在しない「ナニか」です。そんなナニかを感知することで、人間は社会を作り、自分を演じ、毎日を生きていきます。それを感じられないようなら、生きていることに相当しないと思います。
そんなわけで今回は、「見えないナニかを感じてしまう脳」のスゴ味が堪能できる本を選んでみました。生命への尊厳、理解不能なモノへの理解、簡素を究めた美、他者視点と自己投影――脳の不思議を存分に味わっていただけましたら幸いです。
【池谷裕二】
池谷裕二(いけがや・ゆうじ)さんプロフィール
1970年、静岡県藤枝市生まれ。薬学博士。
現在、東京大学大学院薬学系研究科准教授。科学技術振興機構さきがけ研究員。堅実な実験と、斬新な視点に立った研究が国の内外を問わず、多くの人を惹きつけている屈指の脳研究者。記憶のメカニズム解明の一端として「脳の可塑性」に注目し、論文や学会に精力的に発表を続ける。2006年に日本薬理学会学術奨励賞と日本神経科学学会奨励賞、2008年には日本薬学会奨励賞と文部科学大臣表彰(若手科学者賞)を受賞。一方で、最新の科学的知見を一般にむけてわかりやすく解説する手腕は圧倒的な支持を集めている。主な著書に、『海馬』(糸井重里氏との共著、朝日出版社/新潮文庫)、『進化しすぎた脳』(朝日出版社/講談社ブルーバックス)、『ゆらぐ脳』(木村俊介氏との共著、文藝春秋)、『のうだま』(上大岡トメ氏との共著、幻冬舎)などがある。
池谷裕二さん選書リスト
『
進化しすぎた脳』を超える興奮! ため息が出るほど巧妙な脳のシステム。私とは何か。心はなぜ生まれるのか。高校生とともに脳科学の深海へ一気にダイブ。「今までで一番好きな作品」と自らが語る感動の講義録。
(朝日出版社 第二編集部 河西 恵里)
池谷裕二さんコメント 省略の極致たる典雅な小宇宙。声に出して読みたい鮮やかな日本の心。こんな時代からヒトは、自然を賛美し、世を憂い、恋に焦がれている。いや、当時のココロのほうが彩り豊かにキラめいて見えるのは気のせいだろうか。彼らからみれば僕ら現代人はみなアスペルガー症候群なのかもしれない。
絵のない絵本
ハンス・クリスチャン・アンデルセン、矢崎源九郎 / 新潮社
1983/10出版
ISBN : 9784102055014
価格:¥313(本体¥290)
池谷裕二さんコメント 月が夜空から眺めた青白い世界を若者に語って聞かせた33の美しい物語。自分の知らない世界で、自分の知らないうちに進行する、多彩な日常からのひとこま。それは交錯することないパラレルな世界。切ない余韻と圧倒的な透明感はまるでシューマンの『幻想小品集』。
ソラリス
スタニスワフ・レム、沼野充義 / 国書刊行会
2004/09出版
ISBN : 9784336045010
価格:¥2,592(本体¥2,400)
池谷裕二さんコメント あたかも知性を有するかのようなソラリスの海。シベリウスの『交響曲第7番』の神秘だ。はなから関与しなければよいのに、なぜかヒトは交信したがる生き物。理解できないという事実を理解するに至るメタ認知。主人公の心は好奇心、葛藤、屈辱、諦念、感謝へと相転移する。まるで夫婦関係のように。
100万回生きたねこ
佐野洋子 / 講談社
1977/10出版
ISBN : 9784061272743
価格:¥1,512(本体¥1,400)
池谷裕二さんコメント 心を持たないネコは「生きている」とはいえない。他者への共感を獲得するまでのモラトリアム100万回。他者に心があることを知ると、自分にも心があることに気付いてしまう。だから哀しみが生まれる。しかし、なぜか人はそれを「幸せ」と呼ぶ。まるでフランクの室内楽曲のように。
二十億光年の孤独
谷川俊太郎、ウィリアム・I.エリオット / 集英社
2008/02出版
ISBN : 9784087462685
価格:¥518(本体¥480)
池谷裕二さんコメント 幽体離脱して無限遠から自分を眺める浮遊感。モンポウの『ひそやかな音楽』に共通する閑かに枯れた青春。透明な過去の駅にまで探しに行った、とんでもないおとし物とは、万有引力で孤独にひき合う火星の仲間だろうか。ヒトは社会を生む。だから逆に、孤独感を幻覚する。所詮、「孤独」と「孤独でない」は同義語にすぎないのに。
鉄腕アトム 01
手塚治虫 / コミックス
2002/06出版
ISBN : 9784063602685
価格:¥777(本体¥720)
〈01〉
池谷裕二さんコメント 「海馬の研究では博士の右に出る駒はない」という天馬博士によって設計されたアトム。ロボットと人間のあいだを漂蕩する葛藤。一柳慧の『タイム・シークエンス』にように精確無比でいながら、それゆえ、否応なしに歯車がズレてゆく。そして僕らは知っている――ヒトの脳機能も、その大部分は、たかだか機械的反射にすぎないと。
鉄腕アトム 02
手塚治虫 / コミックス
2002/06出版
ISBN : 9784063602692
価格:¥777(本体¥720)
〈02〉
鉄腕アトム 03
手塚治虫 / コミックス
2002/07出版
ISBN : 9784063603019
価格:¥777(本体¥720)
〈03〉
鉄腕アトム 04
手塚治虫 / コミックス
2002/07出版
ISBN : 9784063603026
価格:¥777(本体¥720)
〈04〉
鉄腕アトム 05
手塚治虫 / コミックス
2002/08出版
ISBN : 9784063603132
価格:¥777(本体¥720)
〈05〉
鉄腕アトム 06
手塚治虫 / コミックス
2002/08出版
ISBN : 9784063603149
価格:¥777(本体¥720)
〈06〉
鉄腕アトム 07
手塚治虫 / コミックス
2002/09出版
ISBN : 9784063603507
価格:¥777(本体¥720)
〈07〉
鉄腕アトム 08
手塚治虫 / コミックス
2002/09出版
ISBN : 9784063603514
価格:¥777(本体¥720)
〈08〉
鉄腕アトム 09
手塚治虫 / コミックス
2002/10出版
ISBN : 9784063603729
価格:¥777(本体¥720)
〈09〉
鉄腕アトム 10
手塚治虫 / コミックス
2002/10出版
ISBN : 9784063603736
価格:¥777(本体¥720)
〈10〉
鉄腕アトム 11
手塚治虫 / コミックス
2002/11出版
ISBN : 9784063604016
価格:¥777(本体¥720)
〈11〉
鉄腕アトム 12
手塚治虫 / コミックス
2002/11出版
ISBN : 9784063604023
価格:¥777(本体¥720)
〈12〉
鉄腕アトム 13
手塚治虫 / コミックス
2002/12出版
ISBN : 9784063604214
価格:¥777(本体¥720)
〈13〉
ム-たち 1
榎本俊二 / 講談社
2006/12出版
ISBN : 9784063725704
価格:¥637(本体¥590)
〈1〉
池谷裕二さんコメント ただのナンセンスマンガ。しかし戦慄が走る。言語と思考、存在と時間、偶然と必然、差異と反復といった無限旋律に鋭く切り込む。まさに狂気の歴史、大衆の反逆、知の欺瞞だ。バッハの『音楽の捧げもの』のごとく、リカージョンの悪魔に戯れながら、今日も脳のシワに挟んだ栞を抜こう。すべてはコラージュなのだから。
ム-たち 2
榎本俊二 / 講談社
2007/10出版
ISBN : 9784063726398
価格:¥648(本体¥600)
〈2〉
文体練習
レ-モン・クノ-、朝比奈弘治 / 朝日出版社
1996/10出版
ISBN : 9784255960296
価格:¥3,669(本体¥3,398)
池谷裕二さんコメント 「混雑したバスで見かけた男性を再び駅で見かける」という、言ってみればそれだけの内容を99の異なるスタイルで表現してみせる。常識とは自分の視点における限定的な正しさにすぎない。ソラリスの異形のように生成と変容をうねる修辞――それは『メタモルフォーゼン』の万華鏡。
池谷裕二さんコメント ニューロンは情報をひたすら伝えるだけの部品にすぎない。でもニューロンは集合すると脳で心を生む。歯車は動力をひたすら伝えるだけの部品にすぎない。でも歯車は集合すると時を刻む。ラヴェルのオーケストレーションのような精緻なミクロ世界。時計職人が吹き込んだ創発の魂を感知するのは、僕らの脳にほかならない。
現代ア-ト、超入門!
藤田令伊 / 集英社
2009/03出版
ISBN : 9784087204841
価格:¥799(本体¥740)
池谷裕二さんコメント わかるってなんだろう、好みってなんだろう――現代アートに対して脳内花粉症の人にこそ読んで欲しい。自分の支点が胎動をはじめるだろう。ベルクの『バイオリン協奏曲』を極致の艶美として陶酔できるようになるまでの私の心のゆらぎを思い返す。それは気づきの陣痛だった。
人間 いのちの歴史
松村讓兒、今崎和広 / 小学館
2006/03出版
ISBN : 9784092172135
価格:¥2,160(本体¥2,000)
複製されるヒト
リ-・M.シルヴァ-、東江一紀 / 翔泳社
1998/05出版
ISBN : 9784881356081
価格:¥1,944(本体¥1,800)
生命40億年全史
リチャ-ド・フォ-ティ、渡辺政隆 / 草思社
2003/03出版
ISBN : 9784794211897
価格:¥2,592(本体¥2,400)
無限論の教室
野矢茂樹 / 講談社
1998/09出版
ISBN : 9784061494206
価格:¥820(本体¥760)
「意識」を語る
ス-ザン・ブラックモア、山形浩生 / NTT出版
2009/03出版
ISBN : 9784757160170
価格:¥2,376(本体¥2,200)
のうだま やる気の秘密
上大岡トメ、池谷裕二 / 幻冬舎
2008/12出版
ISBN : 9784344015951
価格:¥1,296(本体¥1,200)
ゆらぐ脳
池谷裕二、木村俊介 / 文藝春秋
2008/08出版
ISBN : 9784163702506
価格:¥1,337(本体¥1,238)
夢に迷う脳 夜ごと心はどこへ行く?
J.アラン・ホブソン、池谷裕二 / 朝日出版社
2007/07出版
ISBN : 9784255004006
価格:¥2,484(本体¥2,300)
海馬 脳は疲れない
池谷裕二、糸井重里 / 新潮社
2005/07出版
ISBN : 9784101183145
価格:¥680(本体¥630)
ぐんぐん元気になる脳
ロルフ・ハイマン、池谷裕二 / フレーベル館
2005/03出版
ISBN : 9784577030752
価格:¥1,058(本体¥980)
ぐんぐん元気になる脳 2
ロルフ・ハイマン、池谷裕二 / フレーベル館
2006/05出版
ISBN : 9784577032381
価格:¥1,058(本体¥980)
〈2〉
ぐんぐん元気になる脳 3
ロルフ・ハイマン、池谷裕二 / フレーベル館
2007/04出版
ISBN : 9784577033920
価格:¥1,058(本体¥980)
〈3〉
海馬 脳は疲れない
池谷裕二、糸井重里 / 朝日出版社
2002/06出版
ISBN : 9784255001548
価格:¥1,836(本体¥1,700)
「じんぶんや」とは?
こんにちは。じんぶんやです。
2004年9月、紀伊國屋書店新宿本店に「じんぶんや」という棚が生まれました。
「じんぶんや」アイデンティティ1
★ 月 が わ り の 選 者
「じんぶんや」に並ぶ本を選ぶのは、編集者、学者、評論家など、その月のテーマに精通したプロの本読みたちです。「世に溢れかえる書物の山から厳選した本を、お客様にお薦めできるようなコーナーを作ろう」と考えて立ち上げました。数多の本を読み込んだ選者たちのおすすめ本は、掛け値なしに「じんぶんや」推薦印つき。
「じんぶんや」アイデンティティ2
★ 月 が わ り の テ ー マ
人文科学およびその周辺の主題をふらふらと巡っています。ここまでのテーマは、子どもが大きくなったら読ませたい本、身体論、詩、女性学...など。人文科学って日々の生活から縁遠いことではなくて、生きていくのに案外役に立ったりするのです。
ご愛顧のほど、どうぞよろしくお願いします。
「じんぶんや」バックナンバー
こちらのページから今までの「じんぶんや」をご覧いただけます。
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【じんぶんや第50講】 池谷裕二選「単純な脳、複雑な「私」」
■場所 紀伊國屋書店新宿本店 5Fカウンター前
■会期 2009年5月8日~6月7日
■お問合せ 紀伊國屋書店新宿本店 03-3354-0131