紀伊國屋書店出版部は60周年を迎えました。 - book review -

紀伊國屋書店出版部60周年

目次
essay
上野千鶴子池内 了岡崎武志
book review
赤坂真理池谷裕二内澤旬子大貫妙子
萱野稔人柄谷行人酒井順子佐々木敦
津村記久子豊﨑由美中島京子松井冬子
山中季弘
history 1955-2015
campaign
message(社長挨拶)
 

book review
ダメをみがくダメをみがく――"女子"の呪いを解く方法

(津村記久子&深澤真紀著)
評者・赤坂真理(作家)

女性の人生が持つ自然な多様さ。それは経済一点突破主義が折れかけの男性的生き方に対して、本来は、風穴となるべきだった。が、「女子」をめぐるメディアや国策が相互にエスカレートした結果「すべてをできる女性がいちばんえらい!」(今、すべての女性誌はそんなでかなり病んでる)となり、他人の期待に敏感な女性は、それに応えようとして折れている。

妊娠出産に最も適した時期に求人などすべてを集中させ、そうでなければ市場から閉め出すことを続けながら、少子化が問題であると言うのは、本当は社会がおかしい。

この本は、現代日本社会の諸問題が、女性の中に端的に出ていることを扱っている。社会の問題は、構造の弱い部分に必然的に出る。だから「女性」なのであり、女性が女性に向けた「女子本」ではない。〈草食男子〉の名付け親・深澤真紀と、派遣やニートを文学に高めた津村記久子の対談。こうしたことを言語化できる著者の2人は、「ダメ」というより、まっとうで等身大であろうとする人たちである。

現在、「女子力」と言えば「女性が主に外見的魅力で異性を惹(ひ)きつけることで有利な人生を取り付ける力、より具体的には経済的に有利な結婚をする力」。これが、婚活市場などともあいまって一大産業にされた。一方で女性は、横並びで突出しないように張り合う特性を持つ。「自分が有利に」と「周囲から浮かない」の両立はかなりむずかしく、これが女子をややこしくする。そしてこの自己矛盾ゆえに「女子」はこれからも産業に利用されやすいだろう。特性や構造をよく把握したうえでそこから積極的に降りる「ダメ」は、生きやすさへの鍵である。そして2人の言を借りれば、生きやすさへの努力ではなく、工夫。

繰り返すけれど、これは女性だけの問題ではない。すべての女と男におすすめする。

(「朝日新聞」2013年6月16日)
book review
〈わたし〉はどこにあるのか〈わたし〉はどこにあるのか――ガザニガ脳科学講義

(マイケル・S. ガザニガ著/藤井留美訳)
評者・池谷裕二(東京大学教授・神経科学、薬理学)

ヒトは生物だろうか――馬鹿げた質問に思える。ならば訊き直そう。ヒトは他の生物たちと同じ原理で動いているだろうか。

脳機能の研究にネズミやサルがよく用いられるのは、動物たちの振る舞いを知ることで、究極的にはヒトを知ることに繋がると期待しているからだ。ところが著者ガザニガはこの考えに否定的だ。彼によれば、ヒトは他の生物と決定的に異なる特別な存在なのだ。「神から選ばれし人類」という優生的な観点からではなく、科学的推論を経ての主張である。ポイントは脳のサイズにある。

脳が大きければ、神経細胞の結合にコストが嵩(かさ)む。遠くの神経細胞を繋ぐ配線材料やスペースに限りがあるため、結合相手の大半は近傍の細胞となる。この物理的制約の結果、ヒトの脳では情報処理プロセスが各局所で独自に行われる多次元的並行処理がメインとなる。これが自尊心や社会性や道徳性など、ヒト特有の思考癖を生む遠因となる。だから「ネズミを調べたところでヒトは理解できない」というわけだ。

たとえば、ヒトは擬人化を好む。ペットを見て「甘えたがっている」「恥ずかしがっている」と感じる。動物たちがヒトに似た「心」を持つ保証はないにもかかわらず、つい擬人化してしまうのは、ヒトの脳が「そうデザインされている」からだ。つまりヒトは、ヒトを相手とするよう、生まれながらに神経配線された社会性生物なのだ。

自分自身についても同様だ。私たちは自分を自由な存在だと信じている。しかし脳に自由意思があるという証拠はない。周囲の環境からの絶え間ない影響の中で自動的に生み出された感情や行動を、ヒトは「私の意思だ」と堂々と錯覚している。

自由でありたいと願う気持ちは理解できる。しかし著者は「その自由とは何からの自由なのか」と問いかける。「まさか人生経験から自由になりたいわけではあるまい」と。

意思の所在が曖昧となると、個人の責任の所在も曖昧になる。犯罪は裁けるのか、脳のスキャンデータは法廷証拠として使ってよいか――これが本書のクライマックスだ。

このところ同分野の類書が連続して3冊出た。アントニオ・ダマシオの『自己が心にやってくる』(早川書房)、クリストフ・コッホの『意識をめぐる冒険』(岩波書店)、そして本書である。いずれ劣らぬ名著だ。ぜひ三者三様の差異を比べていただきたい。あなたは誰派だろうか。

(「日本経済新聞」2014年10月26 日)
book review
眠れない一族眠れない一族――食人の痕跡と殺人タンパクの謎

(ダニエル・T.マックス著/柴田裕之訳)
評者・内澤旬子(文筆家、イラストレーター)

二月三日放送のNHK「週刊ブックレビュー」出演の際に一押しで紹介した『眠れない一族』はプリオン病について書かれたすばらしいノンフィクションです。いろいろあって、候補にあげた本が二冊もダメになった事で、あわてて本屋をすみずみまで歩き回り、八重洲ブックセンターの畜産農学コーナーの平台の隅っこにあったこの本に出会えたのですが、久しぶりの大収穫でした。番組に心から感謝いたします。

この本、黒いんですよ。

著者がプリオン病の親戚筋にあたるタンパク質変異からくる難病を患っているため、視点が病人なんですね。決定的な治療法がない致死性の病気にかかっているということではまあ広く言えば私も癌なので同類です。しかし癌は大衆病です。患者はゴマンといますので、新しい治療法なぞ試さなくてもいいっすと言ったところで引き止められることはありません。

一方彼らの場合は家畜間では大量に発病しているとはいえ、感染性のプリオン病が人に発病する例はまだそれほど多くない。でもこのまま放っておいたら増えるかもしれないからなんとかして究明したい、そのためには大枚はたきますぜと、世界中がギンギラしてる。

てことは、自分のボディが希少な標本になりうるということ。医者の目がねちっこく自分の身体の奥をみているのを、思いついた治療法をこの身体で試してみたがっているのを、場合によっては自分の死体をほしがっているのを、感じてしまう。この〝病気の正体を知りたい?という気持ちと、そして〝名声を得たい?という気持ちとが、入り混ざって、人命を助けるためという美名の下にたぎらせているわけですね。黒いなあー。

お気に入りのエピソードをいくつか紹介。

ある遺伝性のプリオン病にかかった人を見ていた医師が、患者の死期が「聖母被昇天祭」の夏休みシーズンにぶつかりそうになり、どうやって「新鮮な脳」をとりだせるか迷い、ポケットマネーで自分の夏休み期間に待機する医師を雇うところ。

プリオン病のうちの一つ、クールー病解明のために、人間に近い生物での実験が必要となり、千頭(千は誇張と著者は疑っている)というチンパンジーをかき集めてその脳にクールー病で死んだ患者の新鮮な脳の組織を接種。しかし遅発性の病気のため、発病まで年単位で飼育しなければならず、そのあいだに飼育員や研究者の中にチンパンジーに情が移ってしまったりする例があったこと......。情がしっかり移った頃に発病。

念のため言えば、かような動物実験の結果があって、この病気の正体が少しずつわかってきたのですからね。原因不明のまま致死性の病を放っておくことが果たしてあなたにできますか、ということです。

プリオン病の解明に道筋をつけた事でノーベル賞をとった二人の科学者のうち、一番目にとったガイジュシェックは、パプアニューギニアの食人習慣を持つ部族に発生したプリオン病(当時は原因不明の奇病)クールーの研究をしながら、自分の趣味である少年愛を炸裂。たまたま男性間でのオーラルセックスをたしなみとする部族があったため、強制せずにことを運べるパラダイス状態に?れ、アメリカの自宅に何人もの少年をおもちかえり。その部分の結びの文がこれです。著者の黒い視線が冴えてます。

「オカパなら、クールー患者の脳が新たに調達できる。新鮮であればあるほどよい。だからガイジュシェックは、ポール・ブラウン(部下と思って読んでください)に液体窒素をもたせてオカパに差し向けさえした。これで、死亡した患者の頭蓋骨から取り出した脳をすぐさま冷凍でき、脳内の感染性病原体が死滅する前に、パタクセントの研究者がチンパンジーに接種する可能性を、最大限にまで高められる。その一方で、ガイジュシェック自身はニューギニアへでもどこへでも、自由気ままに飛んでゆき、アンガ族など小児性愛の伝統を持つ部族のところにしばしば立ち寄っていた。彼はアンガ族の十二歳の少年を養子にまでしている。一九六三年、ワシントン郊外のダレス国際空港に降り立ったその少年は、裸足で、鼻には骨が通してあったという」

で、結局ガイジュシェックはたれ込みなどいろいろあって、逮捕されて牢獄に入れられます。しかもまさに彼が檻の中にいるあいだに、ライバルの、これまた頭も良くて金を集める政治力もあって実行力もあるけれど、人の手柄も自分のものとしたがる、性格がネジ曲がった化学者プルジナーが、感染性タンパク質に自分の名前から「プリオン」という名前をつけて、ノーベル賞をとっちまうわけです。ガイジュシェックは檻の中で悔しさのあまりデブに。ドラマのようですが、実話です。

ガイジュシェックに会いたいなー。出獄してからアムステルダムにいるらしい(笑)。彼の膨大な日記の翻訳がでたらいいのに(無理か)。

優秀な科学者がかならずしも人格者とは限らない。このあたりまえのことが世間では混同されがちです。

あとがきにさりげなく書かれている「私たちは生まれつき病める生き物」という言葉は、わたしごときが言うのもおこがましいですが、病んだ者には特に心地よく響きます。

そして常にあきらめながら、今日も画期的な治療法が開発されるのを待つのである。著者も、私も、そしてプリオン病患者たちも。

最後に蛇足ながら、膨大な注を削らずに訳して載せてくださった訳者そして版元の心意気に感謝します。ま、出典がないと、フィクションと間違えられるかもしれないもんね。あまりにもおもしろすぎて。恐すぎて。

(「scripta」2008年夏号)
book review
ぼくはお金を使わずに生きることにしたぼくはお金を使わずに生きることにした

(マーク・ボイル著/吉田奈緒子訳)
評者・大貫妙子(シンガー&ソング・ライター)

東日本大震災をきっかけに、モノを買いたいという欲望は私の中から完全に消え失せてしまった。今は、モノがあふれる部屋がいまいましくさえ思える。ほとんどが、仕事に必要だからという理由でそこにあるのだけれど。

モノのあふれる部屋と持ち物をすべて失うというのはどういうことか。そして自分にとって何が本当に大切で必要なのかを、震災によって強烈に納得させられた。

東京の食料自給率は、ほぼゼロに等しい。ひとたび何かがおきると、スーパーマーケットの棚から品物があっという間に消え失せる。お金を持っていても売ってもらうものがないのだ。お金ってなんと役立たずなのかと呆然とした。

気候変動で地球の食料も安定的な供給が得られなくなるだろうと考えるようになったのは、十年前だった。ご縁あってお米をつくりはじめて六年になる。今年も美味しい新米が食卓に上った。汗を流した収穫までの日々と、それに応えてくれる実りのありがたさを思うと、賞味期限切れだからと食べものがぽいぽい捨てられていくありさまを見ると気が滅入る。

消費・賞味の期限が明記されるようになる前は、食品のパッケージに表示されるのは製造年月日だけだった。そもそもこれらの表示が必要になったのは、買い置きをするようになったことが原因なのだと思う。毎日買い物に行き、使い切る暮らしをしていれば問題はおきないのだから。

東京で生まれ育った私が東京を出てしまったわけは、バブルで街が壊れ、大好きな商店街がどんどん姿を消して行ってしまったことが大きい。毎日の買い物ができなくなったのだ。以前はちょっと歩けば行けた商店が生活の範囲の外になってしまった。手に持って歩いて帰ってこられる量だけ買う、ということができなくなって車を使うようになる。すると必要以上に買ってしまう。その結果食物を捨てるというのは、本当に気分の悪いものだ。

多少古くなっていても、匂いを嗅げば「んっ?」と異常に気づくことができるし、口の中に入れてしまったら、舌で「あれっ?」とわかる。飲み込んでしまったら胃に判断してもらおう。身体に悪いものは吐き出す優秀な機能がもともと備わっているのだから。

『ぼくはお金を使わずに生きることにした』で、著者のマーク・ボイルは、食材の調達のために自家栽培だけでなくスキッピング(廃棄されたものを採集すること)を活用した。まだ十分食べられるのに、消費期限切れなどの理由で捨てられているものがたくさんあるためだ。

テレビアニメ「はじめ人間ギャートルズ」の「トリカエッコンの巻」の話はこうだった。ゴンとおとうちゃんは冬に備えて食料を調達しに市場へやってきたのだが、石のお金はこの時期役にたたなかったのだ。

ごろごろ転がして運ぶほど大きな石のお金と交換したいものなんかない! ということなんだ。私にとってのお金のイメージは、いまだにここから進化していない。

アフリカに延べ一年いた頃、たとえばマサイ族の土産物屋で売っているビーズの腕輪を、店員の女たちは法外な値段で売りつけようとするけれど、私が首に巻いていた赤いバンダナと交換してくれるなら持って行っていいよ、と言った。

マーク・ボイルの考えるお金を使わない暮らしも、「完全な自給自足」を望むのではなく、「地域社会の中での自給」を実現する方向が望ましいという結論に至っている。

イギリスの進化生物学者ロビン・ダンバーによれば、人間が安定した社会関係を維持できる相手の数は約百五十人までだそうだ。この大きさのコミュニティーであれば量産によるスケールメリットの恩恵も受けられるし、持続不可能なほどの規模拡大にともなう工業化もおきないはずだと。

自給自足で暮らす家族のドキュメンタリーを見たことがあるが、一年を通して毎日、食料となる動物や野菜の世話をし続けなければならないほど過酷な生活だ。それを無謀にもひとりでやってみたマーク・ボイルは、同じことを相互依存的にやれば休息や創造の時間も生まれ、そういう地域社会の中で暮らすことでお金の必要がなくなる点が素晴らしいと言う。皆が自分にできることを持ちよることで、世間の評判がお金の代わりになる。さらには、与えれば与えるほど、多くを受け取る結果になるはずだと考えているのだ。

「お金を使わずに生活していたら、必要な材料は地域内で調達せざるをえない。地域社会のニーズにこたえる責任が生じるし、おのずと自分たちが使う物に対する認識が深まる」とも。

本書で引用される経済学者リチャード・イースタリンが指摘する「消費主義のルームランナー」のたとえもおもしろい。「人はお金があるほど幸せになれると思いこんでいます。(中略)『収入が増えれば増えるほどますますお金が欲しくなる』という事実を忘れているからです」「お金それ自体には何の価値もないのだけれど、いつしか人間はお金の僕(しもべ)になってしまった。世界はお金に乗っとられてしまった」。「もっともっと儲けたい」という強迫観念で動いている世界なんて幻想なんだってことを、マーク・ボイルは言いたかったのだ。

本書を読みながら、持続可能な社会を実現するためのさまざまなNGO活動を支援されている田中優さんの、「お金をどこで稼いだか、どこに使ったか、どこに預けたかで社会が変わるんだ」という言葉を思い出した。

マーク・ボイルは、金なし生活の過程で遭遇する数多(あまた)の困難を解決するたびに新たなスキルを習得し、逞(たくま)しく、そして自由になっていく。それはお金では買えない宝物だ。これを読み終える頃、読者には新たな視点からの発想が生まれているだろう。私もこんな生活に挑戦してみたい。

(「scripta」2012年冬号)
book review
道徳性の起源道徳性の起源――ボノボが教えてくれること

(フランス・ドゥ・ヴァール著/柴田裕之訳)
評者・萱野稔人(津田塾大学教授・哲学)

人間の思考というのはきわめて自己中心的にできている。地動説を人間がなかなか受け入れられなかったのはその一例だが、いまでも人間を生物のなかで特別な存在だとみなす考えは根づよい。なぜ特別な存在だとみなされるのかといえば、それは人間が他の生物とは異なり、理性や意志によってみずからの本能や欲望を制御できると考えられているからだ。ひとが本能や欲望のおもむくままに行動すれば「獣(けだもの)のよう」だといわれる。つまり、他者との調和や秩序のために本能や欲望を制御するという道徳性こそ、人間を特別な存在だとみなす大きな根拠となっているのだ。

しかし、その道徳性は私たちが思っているほど人間固有のものではないことを本書は明確に示す。本書を読むと、人間以外の動物がいかに共感能力にすぐれ、欲望を制御し、利他行動をとるのかに驚かされるだろう。とりわけ人類の仲間であるボノボやチンパンジーといった霊長類は他者を気づかう行動をとるだけでなく、傍観することもできる他者同士の諍(いさか)いを仲裁するなどして、自らのコミュニティーの調和にも配慮する。たしかに人類の知性は生物のなかで卓越している。しかし道徳性にかんしては他の霊長類との強い連続性にあるのだ。

このことは、人類が類人猿と分化してきた進化のかなり早い段階で道徳的な感情を発達させてきたこと示唆している。道徳は人類の生態的な特性からうまれてきたのであって、けっして理性や啓示によってうみだされたものではないのだ。逆に宗教のほうがそうした道徳感情に立脚して発達してきた。もちろん、だからといって宗教の価値が低下するわけではないと本書はいう。宗教はさらにその道徳性を個別の利害をこえた普遍的基準へと高めることに寄与したからだ。人間という存在を私たちが自己認識するために不可欠で、かつ本質的な論点を本書は提供している。

(「朝日新聞」2015年3月1日)
book review
イスラームから見た「世界史」イスラームから見た「世界史」

(タミム・アンサーリー著/小沢千重子訳)
評者・柄谷行人(評論家)

日本人がもつ「世界史」の観念は、基本的にヨーロッパ中心である。むろん、日本人はそれだけでなく、東アジアから世界史を見る視点ももっている。しかし、その間にある西アジアに関しては、無知も同然である。西アジアはある時期からイスラム圏であり、それはアラビアやアフリカからインド、インドネシアなどに及ぶ。2001年9・11以来、このイスラム圏が突然、大きく浮上してきた。ところが、われわれにはまるで見当がつかない。その政治社会についても、宗教についても、皮相的で紋切り型の知識しかない。しかし、それを補うためにたくさんの本を読んでも、いよいよ不鮮明になるばかりだ。

本書は、イスラム圏の内部でふつうに考えられている「世界史」を書いたものだ。これを読むと、この世界を外から観察するのではなく、その内部で生きてきたかのように感じる。そして、イスラム圏の人々が他の世界をどう見てきたのか、あるいは、現代のグローバリゼーションをどう考えているのか、を身近に感じられるようになる。読者はこれを読んで、このような史観(物語)に与(くみ)することにはならないだろう。しかし、いつのまにか、ヨーロッパ中心主義ないし日本中心的史観から抜け出ているのを感じるはずである。

私は本書から、これまで宗教学の本を読んでわからなかったイスラム教の諸派が、具体的にどういうものなのかを学んだ。また、モンゴル帝国の崩壊というと、われわれは東南アジアで、元のあとの明帝国を考えてしまうが、それは同時代の西アジアで、三大イスラム帝国(オスマン、イラン、ムガール)の形成に帰結している。それらが、近代ヨーロッパの支配の下で変形され、現在のような多数の国民国家に分節されてきたのである。現在の状況を見るとき、本書に書かれたような「世界史」認識が不可欠である。

(「朝日新聞」2011年10月9日)
book review
銀座Hanako物語銀座Hanako物語――バブルを駆けた雑誌の2000日

(椎根 和著)
評者・酒井順子(エッセイスト)

×月×日
ユーミンのコンサートツアーに行って、泣く。最後の曲は「卒業写真」。私と同世代、すなわち中年の皆さんが、ユーミンと声を合わせて歌う様子に、再び涙。

彼女達の後ろ姿には、「この人達も、頑張ってきたのだ」と思わされる。仕事も子育ても、大変に違いない。髪の艶は既に失われているのだけれど嗚呼、それは彼女達が必死に生きてきた証。

しかし彼女達は、実は「仕事と結婚」だけの人生を歩んできた人ではないのだった。彼女達はいわゆる「Hanako世代」であり、「キャリアとケッコンだけじゃ、いや。」なのだから。

今も刊行され続ける、首都圏の女性向け情報誌「Hanako」が創刊されたのは、一九八八年。そして『銀座Hanako物語』の著者は、創刊から五年半の間、編集長を務めた方。本書ではHanakoの成功譚がひもとかれる。

一九八九年に就職した私が「Hanako族でした」と言い切れないのは、俗に言うHanako世代とは、一九六〇年代の前半生まれを指すから。創刊当時、対象読者は二十七歳の首都圏在住女性で、「週一回レストランで食事をし、月一回コンサートへ行き、年一回海外旅行に行く」であったためか、我々よりちょっとお姉さん世代が、Hanakoを大ヒットさせた人達だった。

Hanakoが創刊されたのは、日本がバブルの波に乗り、そして女性の初婚年齢は上がり続け、出生率は下がり続けた時代。「二十七歳で独身」は当たり前になっており、彼女達に時間とお金の使い方を示唆したのが、Hanakoだった。

創刊時の編集長すなわち著者は、男性。彼は、ユニセックスな魅力と強力な個性を持つ女性副編集長を得て、女性中心の編集部を作る。そこに配置される女性編集者は、「一流大卒の、驕慢で傲慢で優秀、少しもやさしいところがない新型の女」だった......。

雑誌好きとしては、Hanakoの快進撃の様子を読むと、わくわくしてくる。時に「偽金づくりをやっているような疲労」を編集長は覚えるものの、Hanakoは確かに時代を切り拓く役割を果たし、そして売れまくった。

Hanakoとは何であったかを解くと同時に本書は、「女と共に働いた男」の話でもある。男女雇用機会均等法以降、「新型の女」たちの扱いに手を焼いた企業は多かったが、著者は彼女達を怖がらずに面白がり、のびのびと仕事をさせた。

海外ロケに行き、ブランド店が取材させてくれなかったので、商品を全部自腹で買った編集者。デパートの地下にいち早く注目し、食べ物のことなら誰にも負けぬ知識を持つライター。美しく国際的で年齢を超越した存在感を持つ、有名ブランドのプレス達。......魅力的な働く女性達の姿と、女性をフラットに見る男性の視線が、そこにはある。

彼女達は猛烈に働いたが、著者は「自分が編集長のあいだは、病人も神経症も事故者も出さない、と心に決めていた」のであり、実際にそうなった。

バブルというと、「乗せられて、後に弾けた」というイメージが強い。が、それは女性達にとっては視野を広げ、外に出るチャンスでもあった。チャンスを生かして巣立った女性や、その後を追った女性も、多かったのではないか。

そしてそこには、働く女性を見守り、後押しをし、さりげなく守った男性がいたのである。かつての上司の顔が、ふと浮かんだ。

(「週刊文春」2014年5月22日号「私の読書日記」一部抜粋)
book review
100の思考実験100の思考実験――あなたはどこまで考えられるか

(ジュリアン・バジーニ著/向井和美訳)
評者・佐々木 敦(批評家)

『100の思考実験』は、「あなたはどこまで考えられるか」という、いささか挑発的な副題の通り、現代哲学や倫理学などで問われてきた重要な設問や難問、珍問(?)の数々を、百個の短いエピソードにまとめ、それぞれにコメントを付した一冊である。

取り上げられている問題はひじょうに幅広く、誰もが知っている「アキレスと亀のパラドックス」や、デカルトに端を発する「我思う、ゆえに我あり」「水槽の中の脳」などといった古典的な設問から、ジョン・ロック、デイヴィッド・ヒュームなどイギリス経験論者の論議、ジョン・サールの「中国語の部屋」、トマス・ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか?」、デレク・パーフィットの人格論、ジョン・ロールズの「正義論」、クオリア問題、そしてマイケル・サンデルに取り上げられて一気に有名になった「トロッコ問題」等々、さながら哲学史のトリビア全集の趣である。

著者バジーニはイギリスの哲学雑誌の編集長で、玄人ではあるが彼自身は哲学者ではないという、その絶妙な立ち位置が、どの設問についても、ひとつの立場に執着することのない、公平で、時に鋭いコメントを可能にしていると思う。特に順番にこだわる必要はないので、興味を惹かれるところから読んでみて、それぞれの問いに自分なりの答えを探してみるのがよい。ほとんどの問題は「正解」があるようなものではない。まずは考え始めることが重要なのだ。

(「東京新聞」2012年4月1日、一部抜粋)
book review
〈わたし〉を生きる〈わたし〉を生きる――女たちの肖像

(島﨑今日子著)
評者・津村記久子(小説家)

以前は、大人になればもうちょっと楽に息ができるようになるだろうと思っていた。それは二十代で働くようになって、少しの金銭的な自由を得たことによって叶えられたかのように見えたのだけれど、それからまた年を食って、どんなふうに生きればいいのかがまたわからなくなってきている。

筆者は三十三歳なのだが、単なる学生時代からの友達というだけの集まりの中にも、独身、既婚、子持ちの専業主婦など、様々な立場の女の人たちがいる。彼女たちと話をすると、それぞれに悪くてそれぞれに良く、とにかく正解がないということが正解、と思えてくる。自分と同じように独身の女の人であっても、映画と音楽とスポーツ番組にしか興味のないわたしを揶揄(やゆ)したりもする。主婦は、たくさん働いてえらいなあと言ってくれる。一緒に遊び回るなら、既婚でまだ子供のいない友人がいちばん気楽な気もする。人間関係は、明確なカテゴリの中でだけ形作られるものでもないのだった。

そうやって生身の女の人たちに出会うと、それぞれはそれぞれに一所懸命だしそれで良いではないか、と思えるのだが、誌面やネットでは、それぞれの区分の女の人たちが血で血を洗う言い争いをしている。自分の生きてきたやり方が正しいと、相対する陣営に認めさせようと必死な人もいる。自分が何か間違ってきたような気がして苦しいのか、それともすごく暇なのか。

両方を交互に見ると、ますます「正解はない」という気分になる。それはそれでいいのだけれど、ときどきは、身の処し方がまったくわからなくなり、あげく、自分が心底共感したのは映画『モンスター』の女シリアルキラーだけだったなあ、と思い出して、心にぽっかり穴があいたような気持ちになる。そんなアホで浮ついた三十代を後目(しりめ)に、四大卒の女の子の専業主婦願望が高まってたりして、女はもうわけがわからない、とさじを投げたくなるのだった。

どう生きたらいいかわからない。本書は、そんなぼんやりしているわりに根源的で、厄介な悩みには、福音のように響く本だろう。リスクを負いたくない人、得だけしてそこそこ幸せになって、その程度のことを皆に誉めてほしい人が目を背けたくなるであろう、成功と裏腹の痛みと悩みに光を当てる。

たとえば木皿泉さんの章では、普通の人生とはなんだろう、と改めて考えさせられた。すごく気があって、二人で完結しているような木皿さん夫婦には次々試練が襲いかかる。木皿泉というと、めちゃくちゃ成功してる脚本家以外の何者でもないのだが、私生活は苦難の連続なのだった。夫の木皿さんは脳出血に倒れ、半身が不自由になり、妻の木皿さんは躁鬱(そううつ)病を患ってしまう。仕事にまつわるOKを出すレベルが高すぎて、お金にだって苦労する。けれど、自分たちを支えてくれる人のことを決して忘れない、等身大の夫婦の姿が記される。最終的に浮かび上がるのは、苦難を受容して生きる、それでも幸福な一組の夫婦の姿である。そこで、普通にも幸福にも、誰にも敷衍(ふえん)できるモデルなどないことに、読者は気付く。

また、夏木マリさんの、歌手になってだめになって、グラビアもやって半裸もさらした末の、虚飾のない仕事への姿勢にも、勇気のようなものを与えられる。夏木さんは、目の前のことをひたすら一所懸命やる。これがどうしても好きとか、こうなりたくてとかではなく、「恥かきたくない一心」とかで必死に真面目に動く。それが誰かの心に焼き付けられ、仕事につながり、マネージャーの砂田さんのプロデュース能力もあって、一段一段仕事のレベルをあげてゆく。その向こうで、夏木さんが本当にやりたいことを発見してゆく様は、一人の人間が仕事と向き合う物語として、非常な感動を誘う。「明日を信じられないから頑張れる」という言葉が、胸を抉(えぐ)る。それがいいことなのか悪いことなのかわからないが、自分が『モンスター』に共感した感触さえ思い出した。人間は明日で、未来で、孤独になりたくないがために必死に策を巡らし、あらゆる我慢をするのに、夏木さんは、すぱっとその「明日」の枷(かせ)を取り払ってみせる。

山田詠美さんのすばらしくすっきりした在り方や、林文子さんの仕事と深く結びついた柔軟で興味深い人生は、すぐに誰かに伝えたくなるような魅力を湛(たた)えている。長与千種さんと風神ライカさんの生きる孤独は、逆説的に、誰かを「一人ではない」と奮い立たせる力強さを持っている。その他、ここに登場するすべての女の人たちの挑戦と戦いは、必ず読者に勇気を与えるだろう。

傷つきながら生きたらいいと思った。投げやりに聞こえるだろうか。人間が傷つきながら前に進む姿は、他人(自分の気に入る女にだけ生きていることを「許可」する男と、男に気に入られてでしか生きられない女)の傍らに存在してはいけないものなのだろうか。そんなことは絶対にない。満身創痍(まんしんそうい)で、それでも立っているということを、ここに出てくる女の人たちの有様は肯定している。誰もが暇でケチで憂鬱でずるけている世界で、その姿がどれだけ輝いて見えることか。

最後に、本書を総括するであろう萩尾望都さんの言葉を引用する。「でもね、異端のしんどさは時に武器になる。みんな、そのしんどさを胸に掲げて生きればいい。世界は変わります」

(「scripta」2011年秋号)
book review
カリブ海偽典カリブ海偽典――最期の身ぶりによる聖書的物語

(パトリック・シャモワゾー著/塚本昌則訳)
評者・豊﨑由美(ライター、書評家)

女悪魔! 呪い! マントー(治癒をもたらす人)! 怪物! ゾンビ! 男を呑みこむ美女! 母親を内から喰らいつくそうとする百五十六人の胎児! お化け= バラクーダ! フランスでもっとも権威ある文学賞、ゴンクール賞を受賞しているパトリック・シャモワゾーの『カリブ海偽典』は、エイモス・チュツオーラの陽気な幽鬼譚『やし酒飲み』や、レイナルド・アレナスのマジック・リアリズム的な声で語られる自伝『夜になるまえに』ならびに奇想天外のピカレスクロマン『めくるめく世界?、ガルシア= マルケスの驚異の片思い小説『コレラの時代の愛』といった非西洋型の想像力と語り口の小説が好きな人なら、魅了されること請け合いです。

〈偉大な独立主義者バルタザール・ボデュール= ジュールは、自分が三十三日と六時間、二十六分と二十五秒の後、老齢のためではなく、挫折の耐えがたさのせいで死ぬだろうと発表した〉という冒頭の一文から、つかみはOK。マルチニック島に生まれ、第二次大戦後に世界に飛び出すや各地の独立戦争に参加し、カストロやチェ・ゲバラ、ホー・チミンといったカリスマ的指導者と共に戦ってきた主人公の数奇な生涯の物語にKOを食らって、九百五十ページもの分厚い本を閉じた時には魂をどっかに持っていかれてしまってる。これはそんなメガトン級の読後感を約束してくれるメガ・ノベルなんです。

自らの死を予言した男の人生を記録するのは、作者の分身たる言葉の記録人〈私〉。でも、それはいわゆる通常の「聞き書き」ではありません。主人公バルタザールは言葉ではなく"身ぶり"で己の生涯を物語るのです。というのも、読み進めていくうちにわかっていくのですが、彼は"身ぶり"によって大切なことを学び、その学びを実践する人生を送ってきたからです。とはいえ、"身ぶり"を言語化するのは大変です。自分は百五十億万年前に生まれ、幾度も生まれ直し、数百万人ものニグロをアメリカ大陸に運んだ奴隷船の悲惨な船底にもいた――そんなところから自分の物語を始めるような傑物相手ですから、奇中の奇というべきエピソードが次から次へと出てきて、それらを示す身ぶりを必死で追いかける〈私〉は時にバルタザールがかつて新聞や雑誌、ラジオで語った言葉に頼ることになり、その反省や苦悩を「仕事場覚書、その他の苦しみ」という形で物語の中に挿入。この小説にはそんな語りの仕掛けが施されているんです。

しかも、バルタザールが身ぶりで語る物語は、過去から現在へと向かって放たれる一本の矢だけで出来上がっているわけではありません。誕生から死へと向かう年代記的なメインストーリー上で起きた出来事や、その時々に生じた感情に刺激されて、別の時間に起きたサブストーリーが招喚される。とても大きなベクトルの上に、無数の小さなベクトルが時に幾つも重なって乗っかっている図を想像してみてください。この小説はそんな重層的な語りの空間を作り出しているんです。

とはいえ、ご安心を。決して難解な作品ではありません。ただただ、バルタザールという魅力的な男の背中を追いかけていくだけでいい。「わー、面白い」「なんだ、こりゃ」と感心したり呆れたりしながら追いかけていくだけで、バルタザールが見聞した世界を体験し、彼が生涯をかけて戦った植民地主義という"呪い"を理解することができる。語りや仕掛けや構成に凝ってはいるものの、これはそんなシンプルな読み方で十二分に愉しめる小説なんです。だって、生誕エピソードからして、こんな具合ですから。

とっくに生まれていいはずなのに、母マノットのお腹の中から出てこようとしないバルタザール。父リモレルは思いあまってもぐりの産婆イヴォネット・クレオストに助けを求めます。おかげで生まれるには生まれたのですが、イヴォネットが請求したのはリモレルには払えっこないほどの額。彼女は実は性悪の女悪魔で、リモレルが誠心誠意を尽くすと誓っても許さず、バルタザールに呪いをかけます。呪いのせいで、ある時から成長を止め、どんどん衰弱していく幼いバルタザール。父と母は息子を救うためにイヴォネットと対決するのですが、敗れ去ります。孤児になった彼の庇護者となり、イヴォネットの呪いから守ってくれたのが森に住むマントー(治癒をもたらす人)のマン・ルブリエ。マン・ルブリエは奇跡の産婆でもあり、バルタザールは医学では解明も治療もできない症状に苦しむ妊婦を救う彼女の献身を見て育っていきます。そればかりか、マン・ルブリエには白人たちによって征服され、汚された場所を、植民地主義という呪いから解放する力もあり、バルタザールは妊婦や土地を浄化する彼女の"身ぶり"を見て育ったおかげで、後年、独立戦争を戦うさなかに、それを再現することで多くの女性を救い、また自分も生き残ることができるんです。

さて、マン・ルブリエは正しい教育を受けさせるため、少年に成長したバルタザールを、ある事情から男のなりをしている女性デボラ= ニコル・ティモレオンに託します。このデボラ= ニコルによって、バルタザールは真の独立心がなんたるかを叩き込まれ、反= 植民地主義者へと成長していくのですが、この少年期にあたる物語がまた面白いことこの上もなし。デボラ= ニコルには姉妹愛と呼ぶには異様なほどの愛情を傾ける妹サラがいるんですが、彼女はゾンビや鏡の向こうの世界にいる異形の者たちと交歓する能力があるんです。ところが、そんなこの世のものではない存在と交わって妊娠したせいで、サラは百五十六人もの胎児に内から喰われることになり、マン・ルブリエの力をもってしても助けることができず、死んでしまいます。バルタザールはそんなサラの美しい娘アナイス= アリシアに一目惚れ。ところが、彼女はサラがゾンビとの間につくった子供で――。

どうです? すごいでしょう。しかし、こんなのほんの序の口なんです。バルタザールをどこまでも執拗に追いかけてくる女悪魔イヴォネット。バルタザールを静かな身ぶりで守り続けるマン・ルブリエ。バルタザールに正しい知識を授けるデボラ= ニコル。バルタザールを魅了し続けるファム・ファタールのアナイス= アリシア。この四人の女性の存在がすべての基本といってよく、イヴォネットの呪いが象徴するのが植民地主義で、その他三人の女性は、長じて世界に飛び出したバルタザールが行く先々で出会い、助け助けられ、愛し愛されといった関係を結ぶ大勢の女性の元型になっているんです。で、その女性たちとのひとつひとつの物語がまた素晴らしくユニークで、読ませること読ませること。『カリブ海偽典』の中には、面白い小説が十作は書けるほどのネタが惜しみなく投入されているんです。

そうした女性たちとの関係の中で成長したバルタザールは、たくさんの冒険を経て、いついかなる時も被抑圧者、被征服者の側に立ち、弱者に心寄り添わせるようになります。〈生命のただひとつの切れ端、全体と同じほど大切な小さな部分のかけがえのなさを信頼〉し、それらを守るために自らの命もかえりみず戦い続ける人生を送ったんです。にもかかわらず、死を前に〈わしはピグミーのために何もしなかった。オーストラリアのアボリジニ、ギアナのインディアン、イヌイット、フラニ族、ジプシーのために、わしは何もしなかった。(略)わしはイスラエルで、十分パレスチナ人ではなかった。(略)サンフランシスコでは十分ゲイではなかった。(略)この糞ったれの自由主義体制のなかで十分失業者ではなかった。至るところで、十分女性ではなかった〉と悔いるバルタザール。長い戦いの日々の後に帰郷するも、独立を勝ちとることなく海外県としてフランス本土に飼いならされてしまった〈新植民地主義〉が蔓延するマルチニック島で孤立し、やがて革命に賭けた己の人生が失敗だったと潔く認めるバルタザール。

このように純粋で強靱な魂がどのように生まれ、鍛えられたのか。わたしは拙文でそのほんの一端しか紹介していません。全貌を知りたい方は、ぜひともこの二十センチもの厚さの本を開いてください。身ぶりを学ぶことで偉大な人物へと成長したバルタザールが、身ぶりで語る数奇な生涯に幾度も息を呑んでください。これは奇想天外のビルドゥングスロマンであり、大勢の女を愛し愛された男のアクロバティックな恋愛小説であり、豊かな声が響くマジック・リアリズム小説であり、反= 植民地主義を超え、支配/被支配の関係自体が機能しなくなる理想の世界を希求した希望の書なんです。

約束します。この長い長い物語を読み終えた時、あなたが「これが六千六百円? 安すぎる!」と驚嘆の声をもらすことを。これが、あなたにとっての忘れられない一冊になることを。なぜなら、わたし自身がそうだからです。わたしが読んだ、付箋だらけの?カリブ海偽典?がその証拠なのです。

(「scripta」2011年夏号)
book review
ファッションフード、あります。ファッションフード、あります。ー―はやりの食べ物クロニクル 1970-2010

(畑中三応子著)
評者・中島京子(作家)

食べ物の流行が、克明に世相を浮かび上がらせる。

長く料理編集者として日本の食を見つめてきた著者が、ファッションのように変化する食のトレンドを「ファッションフード」と定義し、その変遷と背後に見えてくる日本と日本人の姿に迫る。内容は、江戸時代から始まる「前史」を含むが、主には日本が経済的な豊かさを獲得し、日本人の「食」が飢えを満たすものからファッションとして楽しむようなカルチャーとしての「食」に変わった七〇年代から今日を対象にしている。

私自身、東京オリンピックの年に生まれ、日本の高度経済成長とともに成長した人間の一人なので、本書で扱われる食のブームはそれぞれ、リアルタイムで経験した。銀座にマクドナルド一号店ができ、ハンバーガーとコーラとポテトを食べる文化と出会った衝撃、「レディーボーデン」なるリッチなアイスクリームが売り出され、いままで食べていたラクトアイスは何だったのかと悩む私に母が「戦前のアイスクリームはこっち(レディーボーデン)に近かった」と言い放ったときの驚き、同世代男性の「フランス料理」に対するアンビバレンツな思い(それを食べさせないと女が口説けない、しかしそこに行くのは緊張する上に金がかかる、緊張ゆえに旨いのか不味いのかよくわからない、しかし気楽なだけの店では女は口説けない、などなど)も、「カフェ・バー」なるものの正体も、『美味しんぼ』もラーメンブームもワインブームも、「あ?、あった、あった」と、一抹の含羞とともに思い出す風俗史の一コマ一コマなのである。

そして私の経歴は、著者に若干重なるところもあり、八〇年代半ばから九〇年代を通じては、女性誌の現場で働いていた。だから、ともかくあえて流行を掘り出し、でかくして、広く世に知らしめねばならないと思い込んだ食ジャーナリズムの迷走なども、痛いくらいよく覚えている。イタリアン・デザート「ティラミス」の爆発的大流行と、ポスト・ティラミスを求めての右往左往、「クレーム・ブリュレ」「タピオカ」「ナタデココ」「パンナコッタ」と、「次はコレですから!」と鼻息荒く編集会議で主張し特集ページを作り、流行ったんだか流行らないんだかわからないまま時が流れて行った、あの熱くも間の抜けた時代の空気などを、懐かしく思い出しながら読んだ。

同時代を生きた人なら誰でも、ここに編年史として描出される食の流行のどこかに、目と舌と胃袋で参加した記憶を持つはずだ。また、当時の雑誌や広告などの資料を丹念に読み込んでの分析が、コンパクトでありながら密度の濃い文化史読本ともなっている。とにかく、ここから話題があらゆる方向に広がって行く。

そして、こうして整理されたファッションフードの歴史を見ていると、日本の来し方がくっきりと見えてくるのにも驚く。著者は最後のまとめで「ファッションフードの全盛期は七〇年代からバブルまで」と考察し、その後は「過去の焼き直し」も多く、かつてほどの勢いがないと書く。これはもう、はっきりと日本の経済・社会、日本人のメンタリティの変遷を映しだしていると考えられる。

個人的にたいへん興味深く読んだのは、日本の食文化と諸外国との関係だ。ファッションフードを成立せしめた七〇年代のブームは、「フランス」「アメリカ」といった「憧れの国」の文化を旺盛に受け入れた形で幕を開ける。それが八〇年代には「エスニック・ブーム」とともにアジアや南米などに受け入れ姿勢を広げ、九〇年代初頭に「イタめし」と「ティラミス」で頂点を迎える。ところが、バブル崩壊以降を見ると、「蕎麦」、「ご当地グルメ」、オタク文化と相性がよいと著者が分析する「ラーメン」、「コロッケ」、「缶コーヒー」と、ひたすら内向きになっていく。この、日本人の内向き傾向は、九〇年代を語るときに外せないキーワードと思われる。そして、それと表裏一体に進行していたのは、実は著者がゼロ年代の冒頭で指摘する「グローバリゼーション」だ。多国籍企業と資本が世界中の国境を曖昧にしていき、国や民族の多様性が失われて文化が均質化することが「グローバリゼーション」の特徴だけれど、これが食にどういう影響をもたらすか、という主題が浮かび上がるゼロ年代の考察は少し怖くて悲しい。グローバル化で問われるのは、ファッション云々というのどかさではなく、「食の安全性」だからだ。

個々のブームがどんな様子だったかは、懐かしさとともに覚えていても、食のブームをこうして俯瞰視することはあまりない。しかし、『ファッションフード、あります。』を通して、食ブーム・クロニクルをたどって行くと、読めば読むほど、経済・社会・文化・科学など、多岐に亘る問題が浮かび上がってくる。テレビのグルメリポーターが好んで口にするのとは違う意味での、社会学的な「食の奥深さ」に気づかされた、楽しくもスリリングな読書だった。

(「scripta」2013年春号)
book review
女ぎらい女ぎらい――ニッポンのミソジニー

(上野千鶴子著)
評者・松井冬子(現代美術家)

本書は、一般向けの社会学書として、あらゆる日本人に必読である。

「ミソジニー」とは、直訳すると「女嫌い」となる。「女嫌い」と訳すと簡単に聞こえてしまうが、この「ミソジニー」という言葉には、根が深く難解な意味合いが込められている。例えば「男にセクハラを受けた、だから男が嫌い」「男に媚びるから女が嫌い」という類いの直接的な相互関係から生まれる単純な憎悪を指しているのではない。言うなれば、「ミソジニー」とは「女嫌い、女性嫌悪、女性蔑視」を総称する概念であって、性差に関係なく皆の潜在意識として住み込み、女性差別を作り出す根源のことである。この社会は、女性にとっての足枷(あしかせ)というだけでなく、男性自身の首をしめる結果にもつながるミソジニースパイラルを内在している。

上野千鶴子が『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』というタイトルの本を出すということで心からの期待と興奮の中読ませてもらったが、著者はまたしても興味深い書物を私たちに贈ってくれた。著者一流の毒の効いた言い回しによって、説得力のある先鋭的な理論が展開され、文句なくおもしろい。おもしろいと言ってしまうと誤解を招きそうだが、章を読み進むうちに、当然のことながらこの社会の偏見や差別に憤慨を抱き、己の女嫌いや男嫌いの意識に疑問を持ち、いかにそれと格闘していくべきなのかを考えさせられる。

本を開くと、のっけから共感と感慨を呼ぶ。正に著者の上野千鶴子は社会学者であるとともに、エンターテイナーであり、言語というツールで社会に挑む先鋭的なアーティストである。

誰しもの意識の中に存在する「ミソジニー」はどこからやってくるのか。その正体がどのようなものであって、どのように日本の社会を侵食しているのか。それが様々な場合における「女嫌い」を追求し考察していくことで見えてくる。この本は、巧妙に作り上げられた男社会の構造を暴き出し、ミソジニーの理論装置を教えてくれる。

本書では「女の通」といわれる男を通して、また「オリエンタリズム」を例にあげてミソジニーについて説明する。男につごうのよい女を量産するための幻想が、どのようにまき散らかされてきたのか、また、男の値打ちを決めるのはいったい誰なのかを、女、男、同性愛者から探り、差別という行為の定型を示している。人間の行動一つ一つが論じられていくことで、ばらばらだったパズルが一気に組み立てられるかのような感覚が得られる。

ミソジニーの男のアキレス腱である母をモデルに「女性蔑視」と「女性崇拝」をあげ、女性の抑圧の二つの形態について説明する。また、秋葉原事件と、男のプライドを保たせるための趣味の悪い女性像を例にあげ、コミュニケーション・スキルを問う。

日本の「女性蔑視」がホモソーシャル(男同士の絆)を保つための手段であることを、繰り返し教えてくれるのである。そして透徹した理論が解悟させてくれるのは、ホモソーシャルとミソジニーが織りなす負のスパイラルが、児童虐待や強姦やセクハラやDVにまで及んでいるということである。

本書は、私たちが日常で出くわすモヤっとした疑問に対し、俯瞰した地図を示してくれるので、なんとも痛快である。おかげで、日常のあらゆる場面でホモソーシャリティ、ミソジニーを発見することができるようになるから、たまらない。

本書中「就職活動においてはあからさまな女性差別が横行していることは、内定率の男女差などのデータからはっきり示されている。HDI(人間開発指数)において世界一〇位にもかかわらず、女性の地位尺度を示すGEM(ジェンダーエンパワーメント指数)においては五七位(いずれも二〇〇九年)を占めるという、国際的に見て女性の地位がアンバランスに低い日本社会」とある。この現実を私たちそれぞれが自覚することが必要である。女性ならば言われなくても差別を意識させられることがあるはずだが、特に男性は知らないうちに女性を差別していることをしっかりと自覚するべきだ。この恥ずかしい現状を是正するためには、なぜこのような社会が出来上がってきたのかという根本的な理由を知るということがまず第一歩である。それを教えてくれるのがこの上野千鶴子の『女ぎらい』なのだ。

「男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた者と女とを排除し、差別することで成り立っている。ホモソーシャリティが女を差別するだけでなく、境界線の管理とたえまない排除を必要とすることは、男であることがどれほど脆弱な基盤の上に成り立っているかを逆に説明するだろう」。男社会の観念と形式と構造が暴き出されたひとつの大きな装置を見て、膝を打った。

上野千鶴子は、私の学生時代からのフェミニストヒーローだった。私の作品に攻撃性を認める人は多いが、作品のコンセプトとして上野の著作からは大きな影響を受け、インスピレーションを得てきた。

ありがたいことに『女ぎらい』を読むことで、長年私の中に巣食っていた「男性嫌悪」を理解することができた。私が嫌悪していたのは、男社会が作り出した「男性性」のことであり、個人の男性存在ではないということに気がつくことができたからだ。

この本が多くの人に読まれ、ジェンダーの呪縛といかに闘っていくかを、皆が話し合っていける社会となることを期待する。

(「scripta」2010年秋号)
book review
社会はなぜ左と右にわかれるのか社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

(ジョナサン・ハイト著/高橋 洋訳)
評者・山中季弘(朝日新聞特別編集委員)

人はなぜ右と左に分かれるのか。境界はどこか。ウヨとサヨは永遠にわかり合えないのか――。

自問すること数日、『社会はなぜ左と右にわかれるのか』という本を見つけた。著者に連絡すると偶然にも大阪に滞在中だった。

ニューヨーク大学のジョナサン・ハイト教授(51)。左派と右派が憎みあう米国の病理を読み解く心理学者だ。「米国では有権者も保守とリベラルに二極化してきた。近年の選挙戦を見ると、人々の腹に響く強いメッセージを放っているのは保守系の方。リベラル系は退潮を強いられています」

米国では一般にリベラルな政治家ほど弱者救済に熱心で、核廃絶や協調外交を説く。典型がオバマ大統領だが、残念ながら現在は勢いを欠く。

保守系は人々の直感に訴える。世界平和なんておためごかし、大切なのは家族と国益、よそ者に税金を費やすな。あけすけな訴えが支持を広げる。

教授によると、個々人の内面にはゾウと乗り手がすむ。ゾウは情動を、乗り手は思考を担う。リベラルの訴えは乗り手の理性に触れる。保守の訴えはゾウの不安や欲求を突く。いくら乗り手が左の価値にひかれても、ゾウの群れは乗り手ごと右へ右へと移動する。これがハイト理論の核心である。

私などが言うまでもなく、右と左がすなわち善と悪であるはずはない。陰と陽のように補い合い、背と腹のように欠くべからざるものだろう。時代とともに右へ左へ揺れはするが、人々は両者の均衡の上でしか生きられない。

それなのに近年は、左右の対話が細り、敵意ばかりが募る。「こっちは善人の集まり、あっちは悪人の牙城(がじょう)」。幼稚な二分論が各国でまかり通る。

左右の正義に通じたハイト教授だが、ネット上は双方から悪態をつかれる。一例を見せてもらうと、教授を評して「ユング(心理学者)なんか読んで世に毒をまき散らす野郎」。かつてなら書くことさえためらわれた悪口雑言(あっこうぞうごん)が、大手をふって飛び交うデジタル社会。どちら様も大変である。

(「朝日新聞」2015年4月12日「日曜に想う」後半部抜粋)

※「紀伊國屋書店出版部60周年記念小冊子」(2015年10月1日発行、紀伊國屋書店出版部)より転載。書評は著者と掲載紙誌の許諾を得て転載、無断転載・複写を禁じます。

2015.10.13 出版