読書という航海の本棚

洋書トマス・クーン『科学革命の構造』（刊行５０周年記念版） The Structure of Scientific Revolutions : 50th Anniversary Edition （4TH）

私を本書に導いてくれたのは、一つの単語…

コメントを全て表示

私を本書に導いてくれたのは、一つの単語だった。「パラダイム」である。1962年に発表された本だ。翻訳は『科学革命の構造』として1971年に出版されている。（みすず書房、今も入手可）
　このカタカナことばは、岩波新書の『術語集』（中村雄二郎）で解説されていて、本書とその著者への言及もある。「パラダイムシフト」が流行語になり始めた1985年頃に目を通したと記憶している。あらためて、その部分を読み返すと、原著で使われたparadigmというギリシャ語起源の堅苦しい表現が、科学技術の進歩で変化が加速する社会情勢の波にのり、一気に斬新で知的な名詞として拡散した旨の説明がある。
　当時は、手書きで「読むべき本」として記録を残したが、購入することなく時間が経ってしまった。昨年から、科学技術史関係の本を数冊読む中で、この必読書を思い出したものの、古い本なので、入手は困難とあきらめていたところ、たまたま紀伊國屋ウェブストアで検索したところ、「刊行50周年記念版」が国内にあることが分かり、すぐに発注した。1962初版の復刊だが、1969年の追記も巻末にある。
　半世紀たったから今だからこそ、当時の著者の着眼点の鋭さと、丁寧に述べられている「パラダイム」の定義の再確認に意味があるのだと思う。日本では、安易なカタカナの乱用の風潮にとりこまれ、多くの作家や評論家が、その意味を過度に拡大解釈して使用してきた状況の反省にもなる。
　目の当たりにする大きな変化や想像をこえた未来予測を「型破り」と呼称しようと思えば、「併存する型」の変化の経緯と現状を、先ず理解することが必要だろう。
　本書は、ことばの意味を学ぶ上での鉄則である「源に戻る」を、世紀を超えて今に伝えている。

タグパラダイム

洋書 Lao Tzu: Tao Te Ching : A Book about the Way and the Power of the Way

著者は、米国のSF作家。『闇の左手』や…

コメントを全て表示

著者は、米国のSF作家。『闇の左手』や『ゲド戦記』を今までに楽しんだ。本書は、彼女の創作ではなく、「翻訳」という位置づけになっている。原著は、老子が残した『老子道徳経』である。
　表題からも分かるように、英語では中国語の「道」をtaoと表記すると同時に、英訳に際してはwayとするのが一般的だ。
　日本でも、この英語圏での慣例をもとに、「タオ」とカタカナ表記することも多い。「道教」の意味の「タオイズム」もよく目にする。例えば、松岡正剛は『花鳥風月の科学』（淡交社）でこの思想に触れ、「…以下、道教全般をタオイズムというふうによんでおくことにします。」と書いている。2002年に読んだ件だ。
　今回の読書で、彼女は、若い時から父親の影響で『老子』の英訳本を読んでいたことが分かった。ル・グィンの小説を読んだ当時の印象に戻ると、「陰」と「陽」の「二元論」を連想させる雰囲気を味わったことを思い出した。上述２作品の題名からもよく分かる。
　彼女自身の英訳本（本書）は1997年に出版され、今でもよく読まれているようだ。入手したのも2019年５月版だ。他にも多くの英訳本がある中で、この作品は異彩を放っている。なぜならば、著者自身が「後書き」で書いたように、translationではなくrenditionだからだ。これらの英単語は「翻訳」という意味で解釈できるが、前者がある言語から他の言語への変換を意味するのに対し、後者は「演じた表現」に焦点があてられる。「翻案」ではないが、中国語を読めない彼女が行ったのは、複数の英訳本から理解した老子が書き残した知恵を、詩人としてのことばで再表現したという、一種の創作だった。裏表紙に引用された「翻訳が翻訳であることを止めて、二つ目の原著になる」という賛辞は的を射ている。
　過去の読書経験なしに、この作品を「老子の教え」として読んだことは、ある意味、幸いだった。抽象的な表現、あるいは曖昧な逆説等で、瞬時の理解が阻まれるものの、何度も音読をしていくと、2500年の時を超えて、老子が諭そうとした道が見えてくる気がするのである。
　ル・グインは、古の知恵を日常語で見事に現代に蘇らせた。混乱が続く今だからこそ、「権力」を欲する者こそ、本書を紐解くべきである。

タグ老子、老子道徳経

和書中島敦全集セット（全３巻セット）ちくま文庫

私にとっての中島敦は、遠い世界にいる幻…

コメントを全て表示

私にとっての中島敦は、遠い世界にいる幻想作家だった。高校時代に読んだのは「山月記」。澁澤龍彦が編集した『変身のロマン』（立風書房）に収録されていた。（1973年３月）それから年月を経て「木乃伊」を『日本怪奇小説傑作集２』（創元推理文庫）で読んだ。（2015年８月）これだけの読書経験だった。
　他の小説も読んでみたいと思ったのは「李陵」の背景にある著者の歴史への真摯な眼差しへの評価を、『幻想の風景庭園』（富士川義之、沖積舎）で読んだからだ。（2018年1月）「史実を忠実に踏まえて書かれた歴史小説である」との見解だ。さらに、『宝島』の作者、スティーブンソンのサモア島での晩年を描いた中編の紹介もあったのが、驚きでもあった。この作品は「光と風と夢」という軽やかな題名でまとめられている。（巻１収録）
　喘息による病弱体質で若くしてこの世を去った中島敦は、同じような境遇で、南太平洋の島に安住の地を求めた英国の作家の姿に、文学者としての自分自身の生きざまを重ねたのかもしれない。
　この不運に導かれるように、中島敦の意識は、大陸に根差した「漢字」への関心に留まらず、大海原を越えた。（自身もパラオのコロール島で役人として赴任していたことは今になって知った。）この北方と南方という地理的かつ距離的な乖離が、戦時下の混乱を背景に、特異な作風を醸成したのかもしれない。
　手元の『全集全３巻』で中島敦の全貌を目にするわけだが、改めて感じすることは、日本人としての情景である。一つは、日本語と日本文化の底にある中国由来の漢字への尊崇。そして、海を渡り日本列島へと移り住んできた人々が抱き続けた南への情景。
　私にとって、この作家は、時間的にも空間的にも異国をさまよう作家である。現実でありながら、決して手の届かない世界を、時には夢幻的に、そしてある時には、ありのままに描いた筆致は常の重厚だ。
　なお、巻１にある「文字渦」は、円城塔の同じ名前の長編小説（新潮文庫、コメント参照）へ戻ることもできて、短時間ながら至福の時を味わったのだが、この作品を書店で見かけた際に、中島敦を思う浮かべるだけの読書の蓄積が無かったことを反省した次第だ。

タグ漢字、南太平洋

洋書 Operation : Outer Space

画像は、購入予定の本のカバー。世界SF…

コメントを全て表示

画像は、購入予定の本のカバー。世界SF全集11巻（早川書房）に収録されたマレイ・ラインスターの『オペレーション外宇宙』の原書。
　以下に書いてあるのは、同じ著者のThe　Other　Side　of　Here（翻訳は『異次元の彼方から』早川SFシリーズ）についてである。日本語では1971年の12月に読んだ。入手したのが1955年発行の古書で商品番号がないので「買ったものリスト」に反映されず、このような形式でのコメントとなった。
　紀伊國屋ウェブストアでのデータでは表紙が分からなったが、梱包をほどいて大喜びしたのは、早川版の裏表紙にある原著の表紙と同じだったからである。翻訳者はこの1955年版のペーパーバックを使ったのだ。
　小説自体は、傑作というほどの出来ではない。所謂Ｂ級レベルの作品である。しかし、米国のSFに夢中になり始めたばかりの中学生にとっては、衝撃的な内容だった。都市部への異次元からの侵略。何気ない日常を、ある日突然、恐怖と混乱に引きずり込む謎の現象を目の当たりにした主人公の葛藤と奮闘。そして彼を婚約者として慕い行動を共にする科学者の娘。彼女の父親は事件発生に行方不明になっていたのだ。物語の細部は忘れてしまっていたが、SF少年を自称していた頃の興奮はかすかに記憶に残っていた。
　翻訳は文庫として再発行されておらず、英語版でも最近の再発行がないことを考えると、母国でも忘れられた作品になってしまったようだ。従って、今回の購入は、私にとっては奇跡である。
　長編の分類だが、原書のページ数は僅か130の中編である。回顧的な読書のはずが、新たな発見もあり、発展的な収穫にもなった。
　主人公が謎の現象の謎を科学的に説明する件で、彼の許嫁はけなげに聴き入るものの、「理解できない」と嘆いてしまう。この図式は、まさに、科学を可能にする客観的かつ論理的思考は男性のものであるという偏見にみちた学会の思考そのものである。著者は無意識に書き進めたのだろうが、当時の風潮を間接的に確認できた。
　時代遅れの作品から新たな問いを見つけるのも、刺激的である。また、英和辞書にはないcompenetrationというような単語に出会うのもSFを英語で読む楽しさである。
　『オペレーション外宇宙』も日本では再刊されていない。英語の新装版の入手を計画している。

タグ異次元

電子版あり

和書科学史・科学哲学入門講談社学術文庫

著者は、思い出した著述家。忘れていたわ…

コメントを全て表示

著者は、思い出した著述家。忘れていたわけではないが、単著でいうと1998年に読んだ『宇宙像の変遷』（講談社学術文庫）以来で、２冊目だ。
　きっかけは、先月、駅前の月例青空古本市で購入した『岩波講座　科学/技術と人間９　思想としての科学/技術』（岩波書店1999年）の冒頭に掲載された著者執筆の「総論」を興味深く読んだので、改めてこの研究者の著書を調べたみた。その結果、数多い成果の中で最初に選んだのが本書。
　この本の刊行も半世紀前だが、2021年に復刊した。原本は1977年出版の『科学・哲学・信仰』。文明と文化の礎となっている科学の発展と精神の歴史を振り返ることが、21世紀のさらなる混乱を回避するのに必要な視点であるとの判断があったからだろう。名著の再刊というよりも、必読書の再評価だ。
　表題から分かるように二部構成。前半は、教科書的な史実の復習。温故知新も重要だが、将来に向けて「こころ」の問題を再認識する必要性があると説く後半部分がさらに重要だと感じた。
　「哲学」という視点からは難解な記述になりがちだが、「空腹さ」という誰でも体感する生理的な日常語が比喩で出てくると、私のような浅学菲才にはありがたい。また、夏目漱石の『行人』を引き合いにだし、文豪の心理から「こころ」の存在に迫ろうとする姿勢は、素粒子を見つけようとする宇宙理学者の眼差しそのものである。
　読み始めた時には思いもよらなかったが、昨年から問題視されている日本語としての国語の意味の無い分類について再考する機会にもなった。初学者むけに優しく、また丁寧につづられている本書のような良書を政策者が多読していれば、この混乱は避けられたような気がしている。
　裏表紙にあるように「scienceの語源はscientia（知識）」である。本書を読めば、仏教用語としての「識」へも思考が深まる。休眠していた本書（あとがき）が、目を覚ました理由がここにある。

タグ科学史、哲学、こころ

電子版あり

和書死ねない時代の哲学文春新書

「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知ら…

コメントを全て表示

「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」を常に意識して生きてきた。大学生(1975年１月）の時に読んだ森敦の『月山』（河出書房新社）の冒頭に引用されていた孔子の教えの一つである。
　気がつくと「死」を準備する年齢になってしまった。喧伝される「人生百年」に惑わされることなく「死様」について真面目に考えようと思い始めた。不老不死はあり得ない。
　「あの世」については、怪奇小説好きなこともあって、若い頃から関心は高かった。「死語の世界」や「臨死体験」を書いた小説や解説書等も数多く読んできた。本書は、興味本位を卒業して、自分自身の幕引きに真剣に向き合うために手にとった本だ。
　書いてあることはもっともなことばかり。諭される内容だ。唯一残念なことは、校了がコロナ禍の始まる前だったことだ。（出版は2020年２月20日）表紙側のカバーの「そで」に「細菌やウイルスに突然、命を奪われる時代が終わり」と謳われているのはそのためだ。
　かと言って、この時差のために本書の価値が下がるわけではない。一過性の対応ではなく、現代人としての生命の終焉を、どのように考えるのかという、人生論を超えた存在論にまでも議論が及ぶ根本的かつ深淵な問題提起がある。
　しかしながら、能天気な私は、正解がないことをいいことに、真摯な姿勢に留意しながらも、人生の最後の瞬間を如何に楽しむかという方向へ意識が向き始めてしまった。
　「死」を婉曲的に「旅立ち」という。日常的な物理現象の根底にある時空間の背後に、人の知覚では認識できない世界がありそうだということを宇宙物理学者が気づき始めたという記事を米国の科学雑誌で読んでいたので、これこそが「死後の世界」で、最後の最後に驚異の異次元訪問が待っていると思えるようになってきた。
　早く体験したい気持ちにもなりそうだが、『タナトノート』（ヴェルベール、NHK出版）のように急ぐのは愚の骨頂だ。究極の悦楽は後回しにした方がいいに決まってる。死ぬ喜びを最大限に享受する前に、与えられた生を精一杯全うしなければならない。「死ねない時代」は「長寿を満喫する時代」なのだ。
　孔子の教えが、ようやく理解できたような気がする。

タグ死後の世界

洋書『ウーマンウォッチング』(原書） The Naked Woman : A Study of the Female Body

邦題は『ウーマンウォッチング』。同じ著…

コメントを全て表示

邦題は『ウーマンウォッチング』。同じ著者にManwatchingという本があって（邦題は『マンウォッチング』）、その翻訳を意識しての意訳だろう。
　原題を直訳すると「裸の女」。単数形で定冠詞があるので特定の女の人のことのように読み取れるが、ここは総称としての「女性」の意味である。副題にあるように学術的な研究書だ。
　といっても、内容は一般的な読者を対象に書かれている。章立ては、英語で身体全体を表すfrom　head　to　feetのとおり、頭髪から足までの部分で構成されている。要するに、頭の上から巡る女性の身体巡りである。
　しかしながら、男性との共通点や差異にも言及があり、人間としての身体論にもなっている。類人猿との対比もあるのは、著者が動物学者だ。生物学的あるいは進化論の視点からの論述からは、性別に関係なく、人に共通する動物としての能力を客観的に見直す機会にもなる。
　身体機能の科学的な説明に加え、女性特有の化粧、装飾品、整形等への考察もある。腋臭と求愛との関係は、文字通り博物学的な匂いがする。
　日本人女性も取り上げられていて、「お歯黒」や「小股の切れ上がった人」の日本語がローマ字表記で言及されている。両語とも死語になってしまったようだが、改めて、それぞれのことばの意味を考え直すと、日本人として異性を意識する眼差しが見えてくるようだ。
　古代エジプトの口紅や、18世紀のイタリアで複数の男性を殺害した頬に塗る毒薬、魔除けとしてのイヤリングの起源等、歴史的、異文化的な逸話も多く、心を躍らせながら読み進めた。
　眉の動きによる顔の表情、腕や手の動作での感情表現、異性間のジェスチャーの違いを再認識する場面もある。この点からは、本書は、男女間の良好な人間関係を維持するための指南書ともいえる。
　著者はThe　Naked　Man:A　study　of　the　male　bodyという本も書いている。アキラ100%に興味があるわけではないが、発注しようとしたら、運悪く「ご注文いただけません。」とのメッセージ。しかし、これであきらめないのが「読者」という動物である。

タグ女性、身体論

洋書マイクル・クライトン＆ダニエル・Ｈ・ウィルソン『アンドロメダ病原体－変異－』（原書） Andromeda Evolution -- Paperback (English Language Edition)

本書は『アンドロメダ病原体』の続編。翻…

コメントを全て表示

本書は『アンドロメダ病原体』の続編。翻訳は早川書房から『アンドロメダ病原体‐変異』（上下巻）の邦題で刊行されている。
　原書および翻訳版の表紙にも「マイクル・クライトン」の名が大きく印字されているが、著者はダニエル　H　ウィルソンという作家である。この続編が出版されたのは、クライトンが亡くなった11年後の2019年である。時期的に、COVID19の世界的蔓延もあってか、日本での翻訳は早かったように思う。
　個人的には、前編が初めて英語で読んだ本格SF長編小説という記念すべき作品ということもあって（1977年に３ヶ月かけて読破）、想像もしなかった続編の登場に心が踊った。先月、ようやく国内在庫有の確認ができたので入手し、一心不乱に読み進めた。本を閉じた習慣に拍手喝采だ。
　物語は、1967年の米国アリゾナ州の田舎町で始まる。続編は、その50年後の世界で、進化した宇宙由来のstrain（株）が、アマゾンの熱帯雨林で感染を広げ始めたという展開になる。
　この謎の病原体の正体が解明される過程で、今回は、見通しの悪いジャングルを進む人の目とそれを助けるドローンのカメラ、そして、宇宙ステーションから地上を見下ろすという視点が、読者の立ち位置を変化させていく。
　途中で、通信記録とかデータとかがフォントを変えて挿入される構成は、クライトンが前作で試みたように効果的だ。
　最初の感染の生存者（当時は赤子）も、登場し、原作への回顧的な仕掛けも用意されている。別の作家が書いたこの続編は、『スカーレット』（『風と共にさりぬ』の続編）のように忘れ去られるようなことにはならない。むしろ、クライトンの遺産へのオマージュとして、新たな読者を今後も魅了していくだろう。
　個人的には、映画化を意識したベストセラー作家の筆致は好きになれないこともあるが、この小説については、むしろ映像としても見てみたい。前編の映画を高校生の時に楽しんだこともあるが、静謐かつ遠望な結末に辿り着く直前の、宇宙エレベーターからの脱出のスリルを、大きなスクリーンでも味わいたいと思う。

タグアマゾン熱帯雨林、感染、宇宙エレベーター

洋書 Eaters of the Dead

著者は『ジュラシック・パーク』の原作者…

コメントを全て表示

著者は『ジュラシック・パーク』の原作者。大学生時代に『アンドロメダ病原体』の原書を読んで以来、マイケル・クライトン名義の作品は、ほとんど読んできた。　
　本書は、読み損ねていた数少ない一冊。ハヤカワ文庫の邦題では『北人伝説』だが、原題を直訳すると「死者を食うもの」とB級のホラー映画のようになる。
　しかしながら、構成は学術的だ。舞台は西暦922年。あるアラブ人の戦士が、自ら体験した北欧でのおぞましく恐怖に満ちた体験をつづった手記の残された断片を、翻訳をとおして現代に蘇らせたという骨組みだ。
　文献学、言語学、北欧神話あるいは英語への翻訳上の解釈等の視点からの脚注も、読みを妨げない程度に挿入され、「旅」の形式をとった伝奇的な冒険譚を、客観的な視点で楽しむことができる。クラーク・アシュトン・スミスの手法を思い出した。
　千年前の記憶を想起させるように、古めかしい単語や表現が効果的に使われているばかりでなく、異世界での見聞録を印象づける地味な筆致が適切な案内役となっている。
　物語自体は単純だ。『遠野物語』のスカンジナビア編である。要は、「化物」との遭遇と退治の話である。素朴である。したがって、波乱万丈とか活劇を期待すると失望してしまうかもしれないが、私は、ここにstory　tellingの原点があると感じた。著者がまだ、映画化を前提にした執筆に没入する前の作風だ。若き頃の著者を驚愕させたであろう怪奇小説への情景のようでもある。　
　巻末に用意された参考文献一覧（sources）の最後に記載された書籍は、なんと、Necronomiconである。ラブクラフトが溺愛したアラビア人アブドゥル・アルハザードが著わしたとされる魔導書である。
　これは、小細工というよりも罠である。最後に奈落へ落とされた。振り返れば、冒頭から「クトゥルフ神話」の匂いがしていたのだ。black　mist（黒い霧）も、この世のものではない雰囲気を助長していた。
　と言うわけで、遅ればせながらの読書となったこの小説は、私の中では、クライトンの影のベスト１となった。

タグ北欧神話、ヴァイキング、ネクロノミコン

洋書ピーター・バーク『時代の目撃者―資料としての視覚イメ－ジを利用した歴史研究』（原書） Eyewitnessing : The Uses of Images as Historical Evidence

この本へは『フランス百科全書と技術学‐…

コメントを全て表示

この本へは『フランス百科全書と技術学‐「もの造り」の名誉回復と大革命』（コメント参照）経由で辿り着いた。参考文献として掲載されていた『知識の社会史』の原書を紀伊國屋ウェブストアで探した際に、同じ著者の本書の表題に惹かれ、国内で入手可能だったのですぐに購入した。
　作者は英国の歴史学者。翻訳は『時代の目撃者‐資料としての視覚イメージを利用した歴史研究』（中央公論美術出版）で入手できる。
　原題はEyewitnessingで単語一つ。witnessだけでも「目撃する」の意味になるが、著者はあえて、eyeを付記した動詞を使い、しかもingの形にした。語感の差で言うと、表題の動詞では、その場に居合わせるという意味が強調され、他方の単語では、見たことを証言することが期待される。従って、本書の趣旨は、歴史の場面に立ち会うという意識を喚起することだと思う。つまり、「眼差し」を意識した論述である。
　絵画論、写真論の周辺に触れながらも、焦点は失われた過去をより深く理解するための視線の使い方だ。審美眼をもじって「審史眼」とでも言う観察力だ。
　小さな事例に説得力がある。1865年にブラジルの写真家が撮った写真では、帽子をかぶっているものの裸足の男性が写っている。当時のブラジルでは麦藁帽は安かったが靴は高価だったのがその理由との考察だ。靴紐に注目するシャーロック・ホームズ「花婿失踪事件」（５章で引用）の足元への注視とおなじような目線が明らかにする、英国では考えられない他国での歴史の一コマである。
　英語の有名なことわざA　picture　is　worth　a　thousand　words.（一枚の絵は千の言葉と同じ価値がある）を文字どおり具現化する好著。
　残されたイメージを覗き窓にして、隣接する領域も視野に入れながら、歴史を覗きみるパノラマ的な万華鏡である。

タグ絵画、写真、イメージ、歴史

洋書ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲ－テ『若きウェルテルの悩み』（英訳） The Sorrows of Young Werther

『若きウェルテルの悩み』を英訳版で読ん…

コメントを全て表示

『若きウェルテルの悩み』を英訳版で読んだ。若い頃は、文学的な名作と理解してはいたが、「女々しい男の独白」を読もうとは思わなかった。この年になって手に取ったのは、ゲーテという多彩な文筆家が自身の失恋をもとに書いたという事実が気になり始めたからだ。英語を選んだのは、原典のドイツ語に少しでも近い雰囲気を味わうためである。
　邦題の「悩み」が気になった。原題のドイツ語の該当部分を英語に訳すとsuffer（苦しむ）という単語になる。購読した英語訳では、sorrows（悲しみ）で、しかも複数形だ。最愛の人を喪失した時等に感じる深い悲しみを表現する名詞だ。
　通読後の感想としては、英語版の表題のほうが、この作品の内容を的確に反映しているということだ。日本語の「悩み」からは、主人公が直面した悲痛な運命にもがき苦しむ打ちひしがれた精神の危さが読み取れない。
　余計な憶測が湧いて出た。この悲劇的な作品の影響で自殺者が増えた（冒頭の解説ではこれを否定）のを理由にデンマークでは翻訳禁止になった等の経緯を踏まえ、日本での出版に際して、題名にオブラートをかぶせたのではないかという邪推である。
　ウィキペディアによると、1952年以降、５種類の翻訳が刊行されたが、ウェルテルをヴェルターに修正した最新版を除き、「の悩み」の部分には変更がない。『若きウェルテルの煩悶』のようなものが出てもよさそうだったのに。
　三角形の２点が接近すればするほど、残された１点の角度は鋭くなる。その鋭角がウェルテルの心を突き刺していった。彼は、この痛みから逃れるために、銃口を自身に向けたのだ。
　英文で読むと、ifを使った文章の多さに戸惑いを覚える。英文法でいう「仮定法」だ。つまり、狂おしいほどに思いを募らせる女性との関係を、彼女の婚約者が親密な男友達であるという人間関係のために、無念にも断念せざるを得ない状況を、「もし～」の連呼が、少なくとも、夢想の中だけでも成就させたいと切望する魂の苦悩の浄化作用になっている。　
　過度の感情移入はさておき、客観的に読むとよく書けた散文詩だ。自然と運命の営みに対峙し、自らの命を断つことを決心するウェルテルの苦しみを描く筆致は、繊細な心理描写となっている。
　悪魔と怪物までもが言及される８月18日を含むこの月の記述は、人の命の重みを訴えたゲーテ自身の叫びのように感じた。

タグ三角関係、苦悩

電子版あり

洋書 Seven Gothic Tales (Vintage International")

本書の翻訳は白水社から２分冊で出ている…

コメントを全て表示

本書の翻訳は白水社から２分冊で出ている。『ピサへの道―七つのゴシック物語〈１〉』と『夢みる人びと―七つのゴシック物語〈２〉』だ。デンマーク生まれの作家の作品なので、この２冊を購入しようと思ったが、本書は英語で書かれたことが分かり、原文を選んだ次第。
　この作家を強く意識したのは、山口昌男が『本の神話学』（岩波現代文庫、コメント参照）で、「想像力の欠如は人々が存在することを妨げている」という引用で、彼女が物語で表現する感受性を称賛している件を読んだ時だった。その評価が本書へと導てくれた。『ゴシック物語』と表題にあれば、読まないわけにはいかない。
　久しぶりに重厚な読書を堪能した。登場人物が語る経験談や身の上話で入れ子構造になっているばかりでなく、随所に引用されるラテン語、ドイツ語、フランス語、イタリア語の文章が、展開に厚みを加えている。
　その都度、文章を読む目が止まり、推測が困難な外国語についてはインターネットで意味を調べざるを得なかったが、その作業が小休止となり、物語の進行を見直す機会となったのは幸いだった。
　なぜならば、各編とも行先が見えなくなる迷路のような構成だからである。ゴシック小説の舞台にでてくる古城の地下通路を進むイメージだ。途中に隠れ部屋があり、そこに別の物語が隠されている感覚だ。
　1934年にこの英語版が刊行された国は、意外にも米国だった。ウィキペディアによると、著者は、当時、出版社を探すのに苦労したらしい。「ゴシック小説」の本家でのこの作品群の出版が、米国の後になったのは解せない。
　著名なイギリス人作家達の名文を凌駕する巧みな英文に、英国の出版界は嫉妬したのではないかと推測している。デンマーク語の知識は皆無だが、この北欧語の雰囲気が、彼女の筆致に沁み込んでいるのだろう。
　Isak　Dinesenは英語で小説を書く時のペンネーム。母国語での執筆には別の名前を使うという。創作の姿勢からして多重である。この二面性が、ポーに喩えられる所以かもしれない。

タグゴシック

電子版あり

和書沈黙博物館ちくま文庫

終活を意識し始めたら、読むべき物語。こ…

コメントを全て表示

タグもの、人、名前、形見

和書悪魔の涎／追い求める男 - 他八篇岩波文庫

おぞましい表題に引き込まれた。原題はと…

コメントを全て表示

おぞましい表題に引き込まれた。原題はともかく、表紙に「涎」とうたった作品は多くはない。ボルヘスに見いだされた小説家である。本書には、表題作の２作品の他、８篇が収録されている。
　「悪魔の涎」には、『ファウスト』に登場するような「悪魔」は登場しない。読み進めると「ゴッサマー」という現象に出くわし、それが「悪魔の涎」と呼ばれることを教えられる。
　英語にgossamerという単語があり、「蜘蛛の巣、あるいは蜘蛛の糸のような繊細なもの」という意味で、本書の説明のとおりだ。著者は、それが朝の大気の中を浮遊する状況を比喩で使い、少年の行動をより鮮明に印象づけている。
　作者は幼年の頃、ポーの小説に夢中になったようだ。この場面を読めば、彼の幼年期の記憶が再現されていることが分かる。有名な「黒猫」を慄きながら読んだ際に、物語の導入部でポーが忠誠心の希薄さを描くのに使ったこの形容詞を覚えたに違いない。スペイン語の原文は確認していないが、自分の創作でも英語を使ったのだろう。
　しかしながら、コルタサルのこの作品の焦点は、動物ではなく「写真」である。怪奇小説ではない。一枚の写真が別世界を覗く窓のような働きをする。恐怖よりも驚愕を感じさせる名編だ。
　偶然にも、最近は「写真論」の本をよく読んでいるので、この文学者の視線を引用した本に出合えるのではないかと、本編の感想とは別に、心を弾ませることになった。読んだ本、これから読むであろう本が、見えないところで蜘蛛の糸で繋がっているのが実感できた。
　他９篇でも同じような感覚を味わえる。巻頭をかざる「続いている公園」は、星新一を彷彿とさせるショート・ショート。僅か２頁で、読者は、著者が構築した小説という虚構が、あたかも現実であるかのような衝撃を受けるのだ。
　調べると、このラテン文学の異彩はいくつかの長編小説も書いており、いずれも「垂涎の的」になった。これから一つ一つに「唾をつけて」で、自分の物にしていくつもりだ。

タグラテン文学

電子版あり

和書日本的文芸術 - 千夜千冊エディション角川ソフィア文庫

「千夜千冊エディション」の『全然アート…

コメントを全て表示

「千夜千冊エディション」の『全然アート』（コメント参照）の後の23冊目。全巻、書店に並んだ直後に購入し、目を通してきた。今回も、熟読よりも索引入力のための印をふりながら通読をと思って読み始めたが、いきなり二番目の「松尾芭蕉」のところで足をとられた。「俳句」の分析が深かったからだ。
　「俳句」への関心が増したのは、寺田寅彦が「英語の夏目先生（漱石）に俳句などの文学的指導を受けた」（若林勲『寺田寅彦と医学・生物の世界』風濤社）という記述を読んだ時だ。（2019年４月）そしてその直後に、「千夜千冊エディション」の『理科の教室』で読んだ「蝶の句は多い」とのさりげない一文が、脳天を直撃した。横光利一の句を引用した件である。ここで、この伝統的な日本の文芸が「バタフライ効果」と結びついたのだ。
　「俳句」は心象の「カオス」だとの閃きに浮き立ち（足は地についている）、表計算ソフトで「俳句データベース」を作り始めることを思いついた。著名な俳句を一つの面に並べる計画だ。単なる思いつきによる作業は、着手したものの遅々として進んではいないが、今回の読書では前進にむけた刺激を得た。
　芭蕉の有名ないくつかの句について、初案、後案、そして成案を併記して、推敲という語句の入れ替えが見て取れるような解説となっている。五・七・五の枠の中で、選ばれる表現、捨てられる単語。そのわずかな差が、印象や余韻では大きな差を醸し出す。まさに、蝶の飛び方が空気の流れを左右するイメージだ。
　この着眼点で、データベースを少しいじることにした。今は、句全部が一つの縦列に入力してあるが、それとは他に句を三つの縦列で分割して入力することにした。もちろん、五・七・五の区分けである。これ以上書くと「内緒」にしておきたい計画まで踏み込むことになるので、無作為にソートをかけた時にどんな句ができあがるかを楽しむためとしておく。
　後半では「文体(style)」に焦点があてられる。作家がこだわる日本語の「見てくれ」を再考する機会になる。「固ゆで」ではなく、衣装に例えるように視覚化できるだろうと模索中だ。
　このように、このシリーズの松岡正剛の読書指南では、書物や活字と戯れる手法を見つけることができる。究極の娯楽がここにある。

タグ俳句、文体

紀伊國屋書店

洋書 トマス・クーン『科学革命の構造』（刊行５０周年記念版） The Structure of Scientific Revolutions : 50th Anniversary Edition （4TH）

洋書 Lao Tzu: Tao Te Ching : A Book about the Way and the Power of the Way

和書 中島敦全集セット（全３巻セット） ちくま文庫

洋書 Operation : Outer Space

和書 科学史・科学哲学入門 講談社学術文庫

和書 死ねない時代の哲学 文春新書

洋書 『ウーマンウォッチング』(原書） The Naked Woman : A Study of the Female Body

洋書 マイクル・クライトン＆ダニエル・Ｈ・ウィルソン『アンドロメダ病原体－変異－』（原書） Andromeda Evolution -- Paperback (English Language Edition)

洋書 Eaters of the Dead

洋書 ピーター・バーク『時代の目撃者―資料としての視覚イメ－ジを利用した歴史研究』（原書） Eyewitnessing : The Uses of Images as Historical Evidence

洋書 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲ－テ『若きウェルテルの悩み』（英訳） The Sorrows of Young Werther

洋書 Seven Gothic Tales (Vintage International")

和書 沈黙博物館 ちくま文庫

和書 悪魔の涎／追い求める男 - 他八篇 岩波文庫

和書 日本的文芸術 - 千夜千冊エディション 角川ソフィア文庫

会員ログイン

洋書トマス・クーン『科学革命の構造』（刊行５０周年記念版） The Structure of Scientific Revolutions : 50th Anniversary Edition （4TH）

和書中島敦全集セット（全３巻セット）ちくま文庫

和書科学史・科学哲学入門講談社学術文庫

和書死ねない時代の哲学文春新書

洋書『ウーマンウォッチング』(原書） The Naked Woman : A Study of the Female Body

洋書マイクル・クライトン＆ダニエル・Ｈ・ウィルソン『アンドロメダ病原体－変異－』（原書） Andromeda Evolution -- Paperback (English Language Edition)

洋書ピーター・バーク『時代の目撃者―資料としての視覚イメ－ジを利用した歴史研究』（原書） Eyewitnessing : The Uses of Images as Historical Evidence

洋書ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲ－テ『若きウェルテルの悩み』（英訳） The Sorrows of Young Werther

和書沈黙博物館ちくま文庫

和書悪魔の涎／追い求める男 - 他八篇岩波文庫

和書日本的文芸術 - 千夜千冊エディション角川ソフィア文庫