映画というテクノロジー経験

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映画というテクノロジー経験

  • 著者名:長谷正人
  • 価格 ¥3,960(本体¥3,600)
  • 青弓社(2014/03発売)
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  • ISBN:9784787272942

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内容説明

誕生から現在まで私たちを魅了し続けている映画。しかし、映画はもはや単にスペクタクルな娯楽としてだらしなく消費されて閉塞状況にある。その現状を打破するために、リュミエール映画に触覚的経験を、山中貞雄にテクノロジーのリズムを、D・W・グリフィスにフィクションの力を、小津安二郎に時間的想像力を見出すことで、映画に伏在する革命的な可能性を解放する。
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目次

はじめに

第1部 リュミエール映画の考古学

第1章 リュミエール映画の考古学――「自生性」の発見
 1 空虚な空間
 2 リュミエール作品の考古学
 3 失認症としての映画的視覚
 4 意味の偽装

第2章 リュミエール映画の神話学1――『列車の到着』の神話学
 1 起源の神話
 2 『列車の到着』神話
 3 鉄道恐怖症
 4 エンターテインメントとしての鉄道恐怖

第3章 リュミエール映画の神話学2――触覚的経験としての映画
 1 観客の熱狂
 2 風・土煙・水
 3 カメラの視線
 4 失認症的視覚と触覚的光景
 5 再び『列車の到着』へ

第4章 リュミエール映画の考古学・再考──リュミエールと宮崎駿の「細部」
 1 リュミエールの細部
 2 宮崎駿の細部
 3 時間的な細部

第2部 テクノロジー、身体、古典映画

第5章 テクノロジー経験としての映画──戦争、全体主義、そして生命のリズム
 1 テクノロジーと「経験の貧困」
 2 「経験の貧困」としてのチャップリン
 3 リーフェンシュタール、あるいは「鎧としての身体」
 4 テクノロジーの遊戯としての映画

第6章 テクノロジーのリズムと物語映画――山中貞雄、マキノ雅弘、ハワード・ホークスをめぐって
 1 狂った?機械と初期喜劇映画
 2 韻律的な物語映画としての山中貞雄
 3 早撮り、ナカヌキ、そして機械的リズム
 4 マキノ雅弘あるいはダンスする映画
 5 チーム・プレイのドキュメント

第7章 アニメーションというテクノロジー──宮崎駿をめぐって
 1 宮崎駿における「表現」と「思想」
 2 「植物に覆われた建物」というイメージ
 3 アニメーションという「機械」をめぐる思想
 4 消費としてのアニメーション

第3部 映画におけるフィクション

第8章 検閲の誕生──大正期の警察と活動写真
 1 活動写真興行取締規則に関する検討
 2 ライヴ・パフォーマンスとしての映画
 3 映画館という猥雑な空間
 4 不可視の権力

第9章 フィクション映画の「社会性」とは何か──D・W・グリフィスをめぐって
 1 『国民の創生』をめぐる二つの言説
 2 フィクション映画の起源
 3 フィクションを捉え損ねる言説
 4 フィクションの社会性

第4部 時間的想像力の可能性

第10章 映画、時間、小津
 1 主題論的な体系と説話論的な構造
 2 「何かが過ぎ去ってしまった」という時間感覚
 3 運動イメージから時間イメージへ

第11章 記憶と忘却の経験としての映画
 1 映画を分析するという錯覚
 2 映画という記憶のたよりなさ
 3 映画を想起するという快楽

第12章 レイアウトとしての映画
 1 『地獄の黙示録』と主題論的分析
 2 プロットと時間の多層的経験
 3 『黄泉がえり』と過去の可能性を開くこと

あとがき
索引

感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

mittsko

5
生涯11冊目の映画本 面白くて、2度読んだ 「理想の観客」(加藤幹郎)ではなく、一般大衆の観客層に寄りそうようにして映画を考察するというアプローチ(本書)が、僕の関心の多くを占めるんだな、ということに気づかされた 映画理論と映画史のクロスオーバーであり、それ自体は興味をひくが、どうしても論述構成がゆらぐかもという感想 また、論文集であり、しかもいくつかの論文で本論部が極端に短い(問題の再提起が異様に長い)ため、もっと論じつくしてほしいなと欲求不満 長谷先生のお仕事、ちょっと集中的に読んでみよう2011/04/03

kumabook

3
ジブリや「國民の創生」についての箇所など、疑問に思うことも多々あった。だが、「触覚的経験としての映像」についてや、トム・ガニングの「狂った機械」から古典的ハリウッド映画の「物語」に至る流れなど、興味深い箇所も多くあった。 「映画的快楽は、一度忘却したものをもう一度思い出すという観客の認識的営みから生じている。」という印象的な一文には、だからこそ映画を語ることは楽しく、辞められないという言葉が続くのではないかと個人的に思う。 2024/03/19

ジャン

3
物語映画は観客を文化的な視覚へと馴致するが、リュミエール映画の観客はカメラ的視覚との同一化による自由を享受していた。チャップリン、キートンや山中貞雄の映画は、機械と戯れる身体や編集の機械的リズムによって観客の身体をテクノロジーのリズムへと開かせることで、文化的拘束からの解放をもたらす。前半は面白く読んだが、蓮實を批判しつつ小津の映画を運動イメージから時間イメージの移行として雑駁に論じたり、『國民の創生』に対する黒人差別の視点からの批判をフィクションのフィクション性を看過しているとする点には同意できない。2023/10/10

乙郎さん

3
★★★★★ 映画を観るということを「経験」としてとらえた新しい切り口の論著。私たちが映画を観る際に無意識に前提としてしまっていることを改めて問い直すことにより、果たして映画にとっての面白さとは何かということを考えさせるつくりになっていてよかった。良著です。2011/09/03

hana_tin3

1
色々な取っ掛かりを見つけられる一冊です。ここから枝葉に別れていくでしょう。私の場合は根幹に触れたかったので、多少消化不良です。2012/10/17

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