内容説明
引用される作品は、記紀万葉から折口信夫、ヘーゲル、サルトルにまでにおよび、そのジャンルは詩、物語文学の表現としての通史であり、戯曲の成り立ちを、能・狂言を通じて丁寧に展開した画期的論考でもある。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ヴェルナーの日記
192
著作者・吉本氏による独自の文学論を展開した作品。前作のなかで言語とは”自己表出”と”指示表出”に分類している。難解ではあるが、自己表出とはある対象に対して意識の動きを表したものであり、指示表出とは対象に対して何らかの指示をを与えようとする動きを表しているのだと思う。これらを核(自己表出性を縦軸に指示表出性を横軸として表す)として、この2つが織りなす軌跡が言語構成であり、織りなす軌跡の美しさ(バランスが取れていること)が”言語にとっての美としている。2018/04/18
しゅん
13
「だと言っていい」という文の頻発が特徴的。劇に関する議論で、ブレヒトらをディスっているわけですが、そこに「本質的な」批判があるとはとても思えないんだよな。曖昧な言葉遣いと明確な罵倒。この嫌らしい組み合わせが何故多くの日本人を魅了したのか、結局よくわからない。2020/03/24
ken
6
ようやく読み終えた本書。あまりに難解で、まさに「文章との格闘」といった感じだった。文学の起源はとても興味深く読めた。改めて吉本の言語観を噛みしめてみる中で、ソシュールとの関係性や、親鸞との共通点について考えを整理することができた。やはり、吉本隆明は、人間の主体の復権をつよく願った思想家だったのだろう。そして、親鸞と吉本の言語観には、きっと共通点がある。いずれ吉本著『最後の親鸞』も読んで、吉本の親鸞論にも触れたいと思った。2021/05/26
mstr_kk
6
言語の指示表出とは流通性(通じること)、自己表出とは芸術性(凄いこと)。言語を用いたどんな表出・表現にも、この2つのベクトルがある。自己表出は通時的な堆積に左右され、指示表出は共時的な関係に左右される。この概念を用いることで、表出・表現を作家性に還元することも、社会に還元することも退けながら分析していける、と吉本さんは考えたのだろう。非常に興味深い考察だったが、僕には残念ながら古典文学・古典演劇の素養がないので、完全に理解できたわけではない。2013/03/14
なかたつ
4
言語を用いられて生まれた作品はもちろん言語によって成り立っている。だからこそ、作品を読む、ということは、言語とは何か、ということを追究することに等しい。吉本は、作品を読む、ということを、書かれた時代背景に還元するマルクス主義的解釈学に異を唱え、作品を読むにあたり最もよい方法を模索した。その答えが「言語とは自己表出と指示表出の織物である」ということ。作品は、作者にも、時代にも還元できるものではなく、言語から生まれ、その言語の選択や判断が含まれており、帰納的方法によって解読できるものではないだろう。2013/09/03