知的障害者家族の臨床社会学―社会と家族でケアを分有するために

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  • サイズ A5判/ページ数 277p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784750323534
  • NDC分類 369.28
  • Cコード C0036

目次

序章
第1章 障害者家族の親はどのように捉えられてきたか
第2章 障害者家族の親への支援方法にみる対象像
第3章 知的障害者家族の母親のナラティブから―知的障害者家族の経験への考察
第4章 知的障害者家族におけるジェンダー―知的障害者家族の父親の考察
第5章 知的障害者家族のケアの特性とその限界―ケアの社会的分有に向けた検討課題
終章 知的障害者家族の親性とケアの社会的分有
補章 加工以前の語り

著者等紹介

中根成寿[ナカネナルヒサ]
1976年愛知県生まれ。2005年立命館大学大学院社会学研究科応用社会学専攻博士課程修了。博士(社会学)。関心は家族や障害に関する社会学(家族社会学、障害学)。現在、京都府立大学福祉社会学部専任講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

出版社内容情報

知的障害者家族のおかれている位相、日常生活上の問題、親亡き後の課題を、過去の調査研究と親たちの語りを通して整理。老いによる時間的限界を理解しつつも、ケアを続ける親のジレンマを浮き彫りにし、その解決のために「ケアの社会的分有」を提起した意欲作。

序 章
 第1節  なぜ知的障害者家族か――親子関係の視点から
 第2節  知的障害者家族の抱える課題
 第3節  臨床社会学の意義について
 第4節  本書の構成
第1章  障害者家族の親はどのように捉えられてきたか
 第1節  障害者家族の親に関する先行研究についての概説
 第2節  脱家族論の意義と限界について
 第3節  障害者家族の親は独自の存在として捉えられてきたか
第2章  障害者家族の親への支援方法にみる対象像
 第1節  家族支援制度からみる障害者家族の親
 第2節  治療・療育指導における「共同療育者」としての親
 第3節  レスパイト・サービス――誰のための支援か
 第4節  セルフヘルプ・グループ――同じ立場にある人びとの相互援助
 第5節  支援対象としての障害者家族の親像と支援の方向性
第3章  知的障害者家族の母親のナラティブから――知的障害者家族の経験への考察
 第1節  親のナラティブに注目する意義
 第2節  調査の概要と分析手法
 第3節  親たちのナラティブから
 第4節  考察――親たちの役割認識とその変容
第4章  知的障害者家族におけるジェンダー――知的障害者家族の父親の考察
 第1節  父親の語りに注目する意義
 第2節  障害者家族における父親の先行研究
 第3節  調査の方法・分析
 第4節  調査結果
 第5節  考察――ケア行為と「男であること」のあいだで
第5章  知的障害者家族のケアの特性とその限界――ケアの社会的分有に向けた検討課題
 第1節  ケアの社会化への違和感をめぐって――知的障害者家族の親たちの語りから
 第2節  ケアへ向かう力――ケアする者はなにを得ているのか
 第3節  親密な関係の特性と限界
 第4節  ケアの社会的分有に向けての検討課題
 第5節  本章のまとめ
終 章  知的障害者家族の親性とケアの社会的分有
補 章  加工以前の語り
注 記
あとがき
引用・参考文献一覧

はじめに
 一年に何度かは、新聞やテレビで「障害をもつ子どもの将来を悲観して殺人」という内容の記事をみつける。そのたびに、障害者家族や、間接的にせよ福祉の研究に携わっている者として、私はいいようもない無力感に襲われる。障害をもつ子を殺した親たちには、虐待で子どもを死に至らしめた親ほどの非難は集中しない。社会が「おおよそそのようなもの」として理解しているかのように振る舞うことがまず悲しいし、自分がその社会の一員であることもまた悲しい。
 横塚晃一が『母よ! 殺すな』を書いてから、もう三〇年である。そしてこの三〇年は、障害者運動や社会福祉制度が盛んに語られ、障害当事者たちの権利や生活の質を押し上げてきたはずである。にもかかわらず家族によって殺される障害者は後を絶たない。「なぜだ!」という思いから本書は書かれている。
 障害者たちが施設を批判し家族を否定し、自立に向けた運動を展開してから、約三五年近くが経過しようとしている。彼らの運動は一九七〇年代という政治の季節に相応しく、強烈なメッセージと過激ともいえる行動と思想により展開された。彼らの運動は、後に海外での実践を取り入れ、自立生活センターとそこでの活動により確実に実を結びつつある。
 だが、家族や施設を否定し、苦労しながらも自立生活を獲得した障害者は多くが身体障害者たちである。それ以外の障害をもつ人々はいまだ施設や家族、多くは親元での生活を行っている。知的障害者たちにとっても、家族は離脱をしたい否定的な場所なのだろうか。
 確かに身体障害者たちが指摘したように、家族という場所は障害者たちにとって、生きるために必要な空間であると同時に、不自由や抑圧をもたらす場所でもある。だが、不自由や抑圧「だけ」をもたらす場所ではもちろんない。人は他者と親密でありたい、他者にとって自分が特別な存在であることを願って、いわば希望からはじまって家族を形成する。誰だってはじめから他者を抑圧しようとする意図をもって家族を形成するわけではない。広い世の中で偶然に出会い、その偶然から生まれた関係を親密な関係に昇華させることにより家族は成立していく。
 希望からはじまった家族が、なぜ不自由や抑圧のフィールドとなってしまうのか。児童虐待、DV(ドメスティック・バイオレンス)、高齢者虐待、障害者家族の親子心中などの家族のあいだでおこる暴力や抑圧は、すべて親しき人びとのあいだでおこる。しかも相手の身体に触れ、ケアを受け提供する者たちのあいだで、だ。
 社会は家族の中でおこる悲劇に対し、さまざまな反応をする。児童虐待なら愛すべき子どもに暴力を加える親を非難する。DVなら殴る男性を批判したうえで、逃げない女性に首をかしげる。高齢者虐待や障害者家族の親子心中ならば、介護疲れや将来を悲観してという説明に納得し、社会福祉制度の不備や社会福祉資源の不足を嘆く。
 家族の中でおこる悲劇に対し、ここ数年、制度の変更や法律の施行がなされた。「児童虐待の防止等に関する法律」、「配偶者からの暴力及び被害者の保護に関する法律」、「公的介護保険制度」、「支援費制度」や「障害者自立支援法」などである。これらの法律や制度には大きく二つの視点が内包されている。一つは家族の中での弱者を守ること、もう一つは、ケアを社会化しようとすることである。
 本書が取り組もうとする課題も、法律や政策が目指そうとする二つの視点と重なっている。本書の課題は大きく分けて二つある。一つは、知的障害者家族の親が子どもを迎え、子どもと時間を過ごすことでいかにして親になっていくかというプロセスを描くことである。二つめは、知的障害者家族の親子が成長し、親が自らの老いを自覚する頃の課題を整理し、「親亡き後」問題を親の立場から描くことである。前者を親が子どもに近づいていくプロセスだと表現するならば、後者は子どもから遠ざかっていかざるを得ない親を描くことになるだろう。当事者の「エンパワメント」や「自立」の理念がもう二〇年近くもいわれ続けている中で、どうして知的障害者たちは弱く扱われてしまうのか。ケアの社会化が必要だ、と叫ばれ続けているのに、どうしてなかなかそれは進まないのか。理念の方向性は間違っていないのに、なぜかそれがうまくいかないという理由を筆者は知りたかった。それには制度の研究をし、制度の弱点を指摘するよりも知的障害者家族の親に話を聞いてみるのがよいと考えた。
 本書は身体障害者たちが展開した自立生活運動、脱家族の動きの歴史をふまえた延長線上に位置づいている。しかし、本書は障害当事者たちの側からではなく、知的障害(児)者の親の側から見た社会、家族を対象にした研究である。この意味では近年注目される「当事者主権」の流れとは少し異なるかもしれない。だが、自立生活運動の中で展開された脱家族論の「正しさ」の前に沈黙せざるを得なかった親の側からの論理を追ったつもりである。脱家族論のような歯切れの良さは本書にはない。例えるなら、同じ目標に向かって一緒に歩いていた集団の中で、ある人が足を止め、後ろを振り返った地点から書かれた本である。理念は間違っていないのに、そこにすんなり向かえない。立場や利害が異なるから、といってしまえばそれまでだが、なぜ異なるかを知りたいと思って、本書は書かれている。はっきりとした答えは本書の中にはないかもしれないが、「なぜ」は少しだけ提示されていると思う。