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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
しゅん
15
後半(正確には上巻の途中から)はレヴィ=ストロースとルソーの批判的読解に充てられるが、前提の議論が消化不良なので当然後半も部分的な理解にとどまる。ルソーがパロール(話し言葉)に裏切られたが故にエクリチュール(書き言葉)に代補を求めたという、この「代補」という概念がキーワードになっている。ルソーか「代補」を害悪としか認めなかったのに対し、デリダはそこに積極的な意義(「絶対的代補」)を見出している、というのか基本的な立場だろうか。2017/09/18
hitotoseno
11
デリダ? どうせ難しいんだろ? そんなものにかかずらってる時間はないね、という人はとりあえず本書の冒頭だけでも読んでもらいたい。哲学という堅苦しい学問でこんなにも御下劣な話ができるのか、とビックリするだろうし、何より笑ってしまうだろうから。上巻において散々文字を卑下し声をあがめる思考をぶったぎったデリダはいよいよ本丸であるルソー論に赴くのであるが、なんと彼は初っ端から自慰の話を始めるのである!2016/06/22
またの名
9
めちゃくちゃ単純に説明すれば、生身のリアルな異性の現前がそれを代理するヴァーチャルな代補に対して必ず優越するという(ロゴス中心主義の)前提を切り崩すのが狙いである本書は、現代のオタク的心性とも抜群に相性が良いはず。代補とはルソーのテクストにおいて実際の性的対象の代補としても機能するものであるのに、それを真面目な言語論と切り離して「区別せんとすること、これこそが何といってもロゴス中心主義の悲願である」。代補の汚染を免れた性や言語や原始社会の根源を夢見る夢想家は、根源は既に代補でしかないことを見ようとしない。2014/12/31
白義
7
上巻が基礎論ならこれはルソーに個別的に適用した各論か。やはりエクリチュール性などを中心に精緻にルソーを読解するも、ただのルソー批判ではなくルソーと共にデリダの思想も浮き彫りにされる過程が面白い。欲望の問題やテクストの問題など、ただたんに脱構築という言葉でくくるにはあまりに惜しい鉱脈がある。何度も再読すべき書。デリダにてこずる学生はまずグラマトロジーから読めば挫折率も低いと思われる。翻訳者の仕事もかなり上質である2010/12/28
Bevel
6
正直ルソーに興味を持ててない。。顔の見える小さな共同体と書類・行政の大社会を比較して、前者を理想化するレヴィ=ストロースを批判する。代補とは、付けたしであること、欠如を埋めることを兼ね備えた存在者のことで、母に対する乳母とか、性交に対する自慰とかが例。要は、自己との一致の外在化、距離化が問題で、こうした機能によって世界そのものは指示しえない起源として立てられる。野生、野蛮、文明というエクリチュールの三段階があることあたりが、進展なのかしら。あとは、構造間の移行を構造主義は記述できないという有名な批判とか。2025/08/25
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