出版社内容情報
本書は、著者が若者たちの文章表現を少しでも高めるために、日本語を「一(いち)」から見直してもらいたいという願いを込めて書いたものである。タイトルが示しているように、まず数表現から始まり、それはいかに多様で豊かな読み方と意味があるかを、古典から現代文学、さらに俗語から拾いあげて、例文を交えて説明している。
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“表現"すること自体は、言うまでもなく自由です。その形態も方途も、自由に選択できます。分野は限りなくひろいのです。音楽・演劇・舞踊・絵画・彫刻……、何によって表現しようと、それは自由勝手です。
でも、詩文を紙に記して“表現"をなそうとする時、我々に与えられているメディアは、文字しかないということなのです。
ですから我々は、その一つ一つを、まず“一から"見つめ直す必要があると思うのです。そして、もしそれに誤謬の垢がついていたら、洗い直す必要があると思うのです。
……そんな思いから、まず最も身近な「数」を取り上げてみようと思いたちました。単に「数」にこだわるのではなく、もっとも親しい文字として、洗い直そうというわけです。
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ことばを洗う
毎日一語でいいから、知っているつもりの母国語を洗い直すのです。すると、詩文を書く時、少なくともその言葉については全き使用が出来ます。「詩語」というと、特別に高尚・優雅なコトバがあるように思っている方がありますが、洗い磨かれた言葉は、たとえ平凡な一語でも、それを用いる人の立派な詩語となり得るのです。そして、それが他の言葉と連関して、新たな詩想の展開もなし得ると、私は信じています。
ことばを洗う――。と言っても、その洗濯法にはいろいろあります。何でも電化されている今日に生きる皆さんには、“あった"と言うべきかも知れませんが、たらいに水を張って一つ一つ手でもみ洗う方法があります。凸凹の波形のついた洗濯板の上で、ゴシゴシやる手もありました。洗濯物を川端に抱え出し、石の上にならべて棒で叩く方法もありました。
いや、遠い世の話でなく、先の阪神大震災の折、いかに洗濯物を処理したかの苦心談を、私は須磨の従妹から聞かされました。従妹の家は潰滅し、義父や義妹を喪いましたが、生き残った者の生活の中に、当然洗濯法の苦慮もあったわけです。……
要は"ことばを洗う"にも、さまざまな方法があることを、知っていただきたかったのです。各種の字書、辞典、図鑑など調べるのはもとより、手で探り、足で実地調査をし、耳をすまし、眼を見ひらき、すなわち五感を存分に活用して、洗う方法を考え、身につけて欲しいと思っているのです。……
この機会に、私は最も単純素朴な実例から、話をすすめることを思いたったのです。利発にして五感の働きのすぐれた方々には、何ともまだるっこしい鈍足の行文に見えるかと思います。が、私の意のある根源を読みとっていただければ幸いです。
(槇 皓志)
内容説明
一つの例を挙げます。裏になっているものを、上にアラワスのが「表」。隠れているものを形にアラワスのが「見」「現」。かがやかにアラワスのが「顕」。アキラカにするのが「著」。白日の下にさらしアラワスのが「暴」。むきだしにアラワスのが「露」。文様などをアキラカにするのが「彰」…。数ことばを実例に“ことばの洗濯”です。
目次
一から何処まで
筆刀両断して二
二人が三脚
三寒すごして四温へ
四捨して五入
五六ゴロと六へ
六義を踏んで七歩あゆむ
七つ転んで八つで起つ
八艘飛んだ九郎
九つ越えて十の坂
百足も行く千万の道
億劫をオックウがらずに