内容説明
カントは従来の形而上学が陥った独断的なやり方を批判し、人間のもつ理性の可能性とその限界をみさだめる。空間とは何か、時間とは何か、認識はどのようにして成り立つのかを明らかにする。古代以来の哲学の難問を解決しようとした意欲的な試みを再現する。
目次
序論(純粋な認識と経験的な認識の違いについて;わたしたちはアプリオリな認識を所有していること、日常的な知性の利用にもアプリオリな認識が含まれないわけではないこと;哲学には、すべてのアプリオリな認識の可能性、原理、範囲を規定する学が必要である;分析的な判断と総合的な判断の違いについて;理性に基づくすべての理論的な学には、アプリオリな総合判断が原理として含まれる;純粋理性の普遍的な課題;純粋理性批判と呼ばれる特別な学の理念と区分)
第1部 超越論的な原理論(超越論的な感性論(空間について;時間について))
序文(第二版)
著者等紹介
カント,イマヌエル[カント,イマヌエル][Kant,Immanuel]
1724‐1804。ドイツ(東プロイセン)の哲学者。近代に最も大きな影響を与えた人物の一人。『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』のいわゆる三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における「コペルニクス的転回」を促した。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルとつながるドイツ観念論の土台を築いた
中山元[ナカヤマゲン]
1949年生まれ。哲学者、翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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壱萬参仟縁
56
M図書館から全7冊大人借り(汗)。2年かかって完成した印象を受ける。どの巻も後半は解説があるため、それを先に読んでからでもよいかも。「形而上学は人間の自然の素質として、どのようにして可能となるか?」(傍点付22頁) =純粋理性の問いは、普遍的理性がそなえる本性のうちからどのように生まれるのか。欲求にもとづいて、答えるように駆り立てられるのはなぜか(同頁)。 そして、「学としての形而上学はどのようにして可能となるか?」(23頁傍点付) 2022/07/27
かわうそ
53
人間には2つの判断方法があり、1つ目は分析判断で「物体は広がりがある」などがこの判断に当たります。これは「A🟰物体、広がり🟰B」だとすると「BはAに元々含まれているもの」だと考えられますので分析判断だとされます。分析判断においてアポステリオリな判断は考えられません。2つ目は総合判断でこれは「太郎は中学生である」というような場合を指し、以前にはBがAに含まれていないものです。この総合判断ではアポステリオリとアプリオリどちらも可能です。また、アプリオリな総合判断はいかにして可能かがここでの議題となります。2022/12/25
ころこ
46
あまりこのシリーズに頼りたくないというのが本音ですが、分冊の単位がちょうど読み易く、解説も一周まわって素直に読めています。空間論におけるニュートン、それに対するライプニッツの攻撃、それに対するカントの空間論が比較されています。ここでの収穫はニュートンのモノに空間が付随しているという考え、ライプニッツの物質の相互の関係位置関係の結果が空間だという考え方に対して、カントは人間の主観的な特性の方に付随するものというアプリオリな考え方というそれぞれの違いが明確化されていることです。2022/04/09
かわうそ
41
本書でカントはアプリオリな認識が可能かどうか(彼はこの内の分析的判断と呼ばれるものは検討することはなく、なぜかといえば分析的判断が経験的なものではないことは当たり前で、ただ概念を分解し続けるという作業に終始することになるから不毛なんですね。)、アプリオリな総合判断は如何にして可能になるのかを検討しようとしました。そして、総合判断においてはAとBを結びつける未知のXというものを仮定しなければならない。なぜなら、総合判断は異質なもの同士をつなげるものだからでそれには第三のものが必要になるからなんですね。2023/04/16
かわうそ
36
カントを読んでいると不思議と心が浄化されるような気がするのです。有限な人間がこの世界の目的であるというのはおこがましい。でも、世界の目的を考えることができるのは人間以外に存在しない。このジレンマをどうぶち破るのか。カントを読むとその謙虚な姿勢に心を打たずにはいられません。 また、そのものは何なのか。というのが科学的な立場であるが人間にとってそれは何なのかと問うことが哲学的な立場であり、哲学にも求められているものである。結局は人間が哲学的思考から逃れるというのは不可能である。 2024/09/14