内容説明
著者6年ぶり、世界が待ち望んだ長篇小説400枚。
内気な人々が集まって暮らすその土地は、“アカシアの野辺”と名付けられていた。たったひとりの家族であるおばあさんが働いているあいだ、幼いリリカは野辺の老介護人に預けられて育った。野辺の人々は沈黙を愛し、十本の指を駆使した指言葉でつつましく会話した。リリカもまた、言葉を話す前に指言葉を覚えた。たった一つの舌よりも、二つの目と十本の指の方がずっと多くのことを語れるのだ。
やがてリリカは歌うことを覚える。野辺の重要な行事である“羊の毛刈り”で初めて披露された彼女の歌は、どこまでも素直で、これみよがしでなく、いつ始まったかもわからないくらいにもかかわらず、なぜか、鼓膜に深く染み込む生気をたたえていた。この不思議な歌声が、リリカの人生を動かし始める。歌声の力が、さまざまな人と引き合わせ、野辺の外へ連れ出し、そして恋にも巡り合わせる。果たして、リリカの歌はどこへと向かっていくのか?
名手の卓越した筆は、沈黙と歌声を互いに抱き留め合わせる。叙情あふるる静かな傑作。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
starbro
194
7月の第一作は、小川 洋子の6年ぶりの長篇小説、小川 洋子は、新作コンスタントに読んでいる作家です。本書は、声タレの生涯、小川 洋子ワールド全開でした。 手タレやスタントマン等、裏方の人生にも色々とドラマはあるんでしょうね。 私は、リリカという名前は可愛いと思いますし、声の美しい女性は好きです。 https://books.bunshun.jp/ud/book/num/97841639199112025/07/01
ちょろこ
123
掬いが好き、の一冊。出会いも喪失も全てを小さな世界に閉じ込めた世界観は、どこか「ことり」を思わせる。アカシアの野辺で暮らす人々が愛するのは沈黙、十本の指を駆使した指言葉での静かな会話。そしてそこに住まうリリカが奏でる誰をもを包み込む歌声。限られた場所で、ささやかに慎ましく生きる人々も確かにいること。小さな幸せが確かにあること。それらをいつだって優しく掬い取る小川さんの描き方が好き。静けさの中からしか、不完全なものからしか伝わらない、得られない想いや優しさ。そこに嘘偽りはないこと…全てが静かに心に刻まれる。2025/08/19
buchipanda3
104
沈黙、歌い手、題名の意味を求めて読み始めた。そこにあったのは、もの哀しさと共に過剰なものへの示唆に思えた。リリカは内気で沈黙を愛する人たちの中で育った。交流に使う指言葉は生活に必要なものに限られ、ゆっくりと相手に届くまで形を見せる。心の中の気持ちを伝えるのは饒舌ではない。互いの気持ちを汲み取る心だ。沈黙は今の時代、消極と見られる。でも装飾のない沈黙の会話は世に溢れる不自然に捻れた言葉を浮かび上がらせる。リリカはそれを感じ取り、あるがままに歌った。沈黙の豊かさと愛おしさを伝えるように、空気と溶け合うように。2025/08/05
シナモン
102
多くを望まず、沈黙と静けさを愛する「アカシアの野辺」の人たち。言葉と情報に溢れた現実世界を離れた読書時間。心が洗われるようだった。 ー彼女が歌うのは、仮の歌だった。ひととき存在し、すぐに役目を終え、誰に引き留めてもらうこともないまま打ち捨てられてゆく。この世に存在した足跡はどこにも残らない。歌い終われば、野辺の沈黙へ帰れる。その保証さえあれば、リリカは十分だった。(P257) 2025/07/22
アキ
96
小川洋子の新作。アカシアの花言葉は魂の不死。魂を慰めるのは沈黙である。アカシアの野辺の夕方にリリカの歌声で「家路」が流される。母の死は長い髪で自分の首を絞めたのおばあさんに聞かされた。だからリリカは短髪しか許してもらえない。おばあさんは迷子の男の子のために人形を森に置いた。野辺の人たちは指言葉で話す。「野辺の人たちは、完全なる不完全を目指している」とあばあさんは言うが、リリカはなんのことかわからない。そして彼女はシンガーになる。小川洋子の作る小説世界は、弱きもの、声なき声、動物との交流に満ちている。2025/07/12