内容説明
しだいに北ドイツ方面に対して強まるナポレオンの圧力に対し、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム三世と王妃ルイーゼはロシア皇帝アレクサンドル一世と同盟を結ぶ事を決意。
だが1805年のアウステルリッツの戦いにより、ナポレオンの前にオーストリア軍も敗れさり、神聖ローマ皇帝フランツ二世は退位。
そして1806年の10月9日についにプロイセンはフランスに宣戦布告。
だがこのイエナ・アウエルシュテットの戦いで、プロイセンは大敗。
プロイセン国王一家は東ドイツのケーニヒスベルクヘ亡命。
プロイセンはフランスの占領下に置かれる事になる。
1807年7月のティルジット条約では夫に代わり、プロイセン王妃ルイーゼがナポレオンと直接の交渉に当たる。
だがプロイセンは多くの領土を失い、また国庫の三倍の賠償金の支払いを課せられてしまう。
来るべきフランスとの再度の戦いに備え、プロイセンでは必死のプロイセンの諸改革が進められる。
王妃ルイーゼの人気を絶大なものにしたのがドイツ方面にも侵攻の手を延ばしてくるナポレオンに対し、北ドイツ方面の領土の防衛を主張し、毅然とした抵抗の姿勢を示した彼女の姿だったのである。
だが王妃ルイーゼは多くの人々に惜しまれながら三十四歳の若さで死去。
王妃ルイーゼの死から三年後のライプツィヒの戦いにより、ついにフランス軍は連合国軍に敗れる。
そしてプロイセンは復興の道を歩み始める事となる。
1871年には王妃ルイーゼの次男ヴィルヘルム一世が初代ドイツ帝国皇帝として即位する。