内容説明
3.11で原子力の平和利用神話は崩れた。人間の叡智は原子力に抗し得なかった。哲学もまた然り。しかし、哲学者でただ一人、原子力の本質的な危険性を早くから指摘していた人物がいる。それがマルティン・ハイデッガー。並み居る知識人たちが原子力の平和利用に傾いていくなかで、なぜハイデッガーだけが原子力の危険性を指摘できたのか。その洞察の秘密はどこにあったのか。ハイデッガーの知られざるテキスト「放下」を軸に、ハンナ・アレントからギリシア哲学まで、壮大なスケールで展開される、技術と自然をめぐる哲学講義録。3.11に対する哲学からの根源的な返答がここに。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
とくけんちょ
57
原子力は核兵器だけではなく、平和的利用、発電などに利用されている。今は忌み嫌われる存在となっているが、かつてはなぜ人々がここまで原子力に明るい未来や夢をみたのか。本書によって、哲学?によって首肯するにいたった。つまりは、原子力に贈与を受けない生、全能を夢見ていたのだと。結論、それは人の手に余るものではあった。原子力は、郷を滅ぼす。それは日本人が一番わかってるはず。原子力は不必要である。2020/02/09
trazom
51
「原子力の平和利用」という風潮の1950年代に、「核兵器よりも、原子力技術が世界に浸透し我々の生活の中に入ってくることの方がもっと恐ろしい」と喝破したハイデッガー。誰もが核兵器の危険性に気を取られていた時期に、哲学者としては彼だけが、原子力という技術そのものの危うさに気付いている。イオニア哲学からギリシャ哲学、デカルト、スピノザを経てハイデッガーに到る真理観を考察し、「科学」に対して「省察する熟慮」を怠った近代哲学への批判は鋭い。ただ、中沢新一先生の原子力に対する見解に帰結する最後の論理は、納得できない。2020/01/09
ころこ
47
日本の歴史から核兵器の批判は容易に想像できます。しかし、著者にとっては、根源的な批判でないと、原発と原子力の批判は達成されない。哲学にとって、根源的とは本来的のことだと理解できます。日本社会の原子力に対する視線と、アレント、中沢新一などの仕事を重ねてます。原子力の思想が人間にとって肯定的に捉えうるから、未だに核兵器は根絶されず、原発は稼働し続けている。だからこそ、迂遠にみえる方法で、原子力の本来的な批判を行うことに意味があります。著者は、保守的で、ともすると原発を肯定しそうなハイデッガーが、土着的な人間性2019/09/23
樋口佳之
38
原子力の問題というのは、ここまで人間同士を対立させてしまう。たかだか発電所の話であるというのに、恐ろしいこと/原子力の利用に限らない大事な視点が語られていると思うのですが、この一節だけはいただけないと感じました。2020/04/02
シッダ@涅槃
38
ただひとりマルティン・ハイデッガーのみが、原爆による破壊の記憶も新しいながら、「核技術の平和利用」というスローガンに誰もが浮かされていた1950年代に、「核技術の平和利用」に対する疑義を哲学的に提示していた。その事実だけでかなりスリリングである。◆ハイデッカーに対して個人的には「偏向した思想家」だと思っている。彼は偏向しているからこそ、上記の事実(核技術の難点)に気づいた。社会科学的視点から1980年代初頭にはソ連に先がないことに気づいた小室直樹のように。2019/10/29