内容説明
妖怪のカタログ「妖怪図鑑」、妖怪を出現させる「妖怪手品」のマニュアル本、妖怪カルタ、人形などの「妖怪玩具」――。江戸で大流行した妖怪遊びを紹介し、江戸時代に起きた「妖怪革命」の軌跡をたどる。
目次
序章 妖怪のアルケオロジーの試み(かわいい妖怪たち 妖怪研究の二つのレベル ほか)
第1章 安永五年、表象化する妖怪(『画図百鬼夜行』の登場 平賀源内と『天狗髑髏鑒定縁起』 ほか)
第2章 妖怪の作り方―妖怪手品と「種明かしの時代」(永代橋の亡霊 妖怪手品本『放下筌』 ほか)
第3章 妖怪図鑑―博物学と「意味」の遊戯(「百鬼夜行」のイメージ 『山海経』と『化物づくし絵巻』 ほか)
第4章 妖怪娯楽の近代―「私」に棲みつく妖怪たち(井上円了の妖怪学 「理学の幽霊」と近代の妖怪 ほか)
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ドワンゴの提供する「読書メーター」によるものです。
HANA
42
江戸と明治・大正において人々の妖怪への受容が如何に変化していったかを論じている。江戸においては妖怪が「表象」として博物学的分析の対象となっていったのに対し、明治では幽霊だけが「私」の内なる闇としてクローズアップされたとしている。開化開化といいながら幽霊を神経のせいとして自我と絡み合わせていく明治・大正より、妖怪を手品のタネにしたり分類し様々な考察を加えていく江戸の方がなにやら明るく楽しい気がするのは何故だろうか。読みながら自然現象の仕業として他をふるい落とした結果、豊かなものを失っているような気がした。2013/07/11
佐倉
21
民俗社会において自然や神仏の意思を読み解くための存在だった化物が都市文化の中でパロディの対象となっていく過程を読本や演芸から読み解いていく。吉宗時代の諸国産物調査に端を発した本草学/博物学の隆盛をトリガーとして自然現象に意味を見出すのではなく観察し列挙する態度が根付きそれが妖怪観に影響を与えたとしている。こうして見ると“近代の妖怪”観は“近世の化け物”を迷信と強いて排除しながら心霊学を真面目に取り組むなど、マジな態度から却って妖怪/幽霊のリアリティは近代の方が増しているのではないか…という指摘が興味深い。2025/09/01
シャル
8
妖怪がいかにして、恐怖と不思議の存在から愛すべきキャラクターへと変容していったのかを分析した一冊。それはまさに、妖怪という存在にとっては革命ともいえるものだろう。特に興味深かったのは妖怪と幽霊の比較で、科学の発達により自然現象が解明され、認識、具現化されたことで妖怪が恐怖の座から転がり落ちていったのに対し、現代に残されたもっとも深遠で非合理な謎である『私』の象徴である幽霊は、霊感の助けも得て自己完結の恐怖となり、さらに不気味な存在となっていったというのは実に納得がいく。さて、これからの妖怪はどうなるのか。2013/07/01
hatohebi
7
近世の妖怪ブーム分析にフーコー『言葉と物』のアイデアを持ってきた点が本書のポイント。かつては妖怪の出現が凶兆を意味するなど「記号」としての働きを持っていたが、近世になり本来の意味作用を失い、その形態に注目され、自由に組み合わされ消費される「表象」となった。その背景となった妖怪イメージの様々な流通形態を、図鑑・手品・見世物・玩具など具体的に取り挙げ分析する。さらに近代では催眠術や神経など「人間」の知覚認識能力と結びつけて妖怪が論じられるようになった。2021/04/26
犬養三千代
5
再読。読む本が無かったので。 鳥山石燕の百鬼夜行絵巻からの妖怪ブームとその変遷。 「ある」ようで「ない」と京極夏彦さんがよく表現しておられる。まさにその通りだと思う。人間は科学的であろうとしながらも割りきれない想いを抱く、その隙間に妖怪は存在してきてのだろう。 昨今の妖怪は消費される ゆるキャラにしたのは水木サンだがその源は石燕。2017/11/21




