内容説明
バンクーバー経由でニューヨークに向かったエドワードは、奇妙なアナウンスとともにカナダの見知らぬ街で足止めされる。繰り返し流れるテロの映像に芭蕉の句がオーバーラップして……。9.11を日本文学として初めて表現したと評価された大佛賞受賞作に、著者の原風景ともいうべき名作「国民のうた」を併録。(講談社文庫)
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ヴェネツィア
365
まさにその日にニューヨークに行くはずであった主人公のエドワードを通して9.11を描く。リービ英雄にとっても極めて重い事件であっただけに、どのように語るかには相当に苦慮しただろうと思う。結局、彼が選んだのはエドワードをヘヴィスモーカーにすることで、バンクーバーに足止めし、半ば間接的に9.11を体験させるという方法であった。当日のニューヨークを舞台に迫真の情景を書くこともできたかもしれないが、これが作家にとって最も誠実な向かい方だったのだろう。タイトルは芭蕉の松島での句「島々や千々にくだけて夏の海」から⇒2022/05/11
ntahima
34
「勿論、ドイツの言葉も歴史、文化も愛している。でもドイツには住めない。余りにも長く離れ過ぎた。」と、悲しそうな顔で、先生は在外独人教育の為、ボリビアへと去った。一方の私は生来のデラシネ気質故か、子供の頃から、国家とか宗教、アイデンティティが一体何を意味するのか理解できなかった。本を読み、頭では理解したつもりだが、未だに皮膚感覚としては分らない。越境作家と呼ばれる著者なら、何かを教えてくれるかと手に取る。誰でもない者として、どこでもない場所を彷徨歩く浮遊感は小説として素晴らしい。但、ここにも答えはなかった。2012/07/22
ハチアカデミー
16
表題作に描かれるように、9.11に際してアメリカにへ飛行機で向かっていて、事件の影響で隣国カナダへ入国し、留まらざるを得なかった作家がいたことは、ひとつの奇蹟である。しかしその特権的な体験に甘えていない。アメリカ人、日本人、中国人、それぞれの国民意識と言語が入り交じり、その「あいだ」で揺らぐ人物が主人公であり、家族もまた、一概に「~人」と表現できない複雑さを持つ。「かえりたい」と言葉にすると「どこへ」という問いが還る。「わたしたち」という言葉に自分が含まれていると気づき唖然とする。違和感の描写が鋭い。 2013/09/24
乱読999+α
11
米国同時多発テロ事件から19年が過ぎた。日本人の記憶からは少しずつ薄れてきたような気がする。米国生まれだが日本で50年以上暮らすリービ英雄氏の作品、初読み。2001年9.11当日とその後数日間、そして1年後を淡々とした文章でネガティヴとフォーリナー、英語と日本語の狭間で揺れ動く様子、葛藤を描いている。また、彼の持つアイデンティティにも言及しているのだが、写生的文章で内面を深くは見せない。それでいて日本語で書かれた9.11事件は日本人にも真摯に訴えかけている。実に興味深く読み終えた。2020/09/12
モリータ
7
◆同タイトルの単行本(2005年講談社刊)に『国民のうた』(1998年3月講談社刊)の表題作一篇を加えた文庫版。各初出:「千々にくだけて」2004年9月『群像』/「コネチカット・アベニュー」2005年4月『群像』/「9・11ノート」2005年2月『世界』/「国民のうた」1997年11月『群像』◆表題作は家族に会うためカナダ経由でNYに向かっていた視点人物≒著者が、9・11当日にカナダで足止めされた状態で色々考える…という話だが、やや散漫な印象。どの話も著者と家族の来し方と関係を読むのが肝か。2025/07/09