出版社内容情報
▼従来の仮説(アラム語説)を覆し、イエスが話していた言葉はヘブライ語であったことを、さまざまな証拠をもって論証する。イエスの言葉を元のヘブライ語に訳し直すと、難解な部分が明快に理解できる。
▼ヘブライ人によって書かれ、ヘブライ的な宗教や伝統習慣が背景になっている新約聖書は、ヘブライ的観点によってのみ正しく 理解できる。本書は、福 音書の研究に新しい光を 投じるであろう。
▼著者のD・ビヴィンは、共観福音書のためのエルサレム学派の研究成果を発表する「エルサレム・パースペクティヴ」誌の編集・発行人。
訳者まえがき
はじめに
第一部 ヘブライ語説の証拠
1章 アラム語・ギリシア語説の検討
2章 言語学上の最近の研究から
3章 聖書外資料からの証言
4章 福音書テキスト自身からの証言
5章 原ヘブライ語福音書テキストの復元
6章 誤訳による神学上の誤り
第二部 誤解されたイエスの語録
一、天国を構成する者 マタイ五・三
二、メシアの自覚を表す引用句 ルカ二三・三一
三、天国を襲う者 マタイ一一・一二
四、キリストの火 ルカ一二・四九~五〇
五、つなぐと解くの意味 マタイ一六・一九
六、パリサイ人に勝る義 マタイ五・二〇
七、律法の完成 マタイ五・一七~一八
八、名を投げ出すとは ルカ六・二二
九、耳に置く ルカ九・四四
十、「顔」を含むヘブライ語表現 ルカ九・五一
十一、平安の子 ルカ一〇・五~六
はじめに
新約聖書の各巻の中でイエス自身の言葉や表現がもっとも理解しにくいということは、まことに不幸なことである。多くのクリスチャンは、無意識のうちに聖書研究の大半の時間をパウロ書簡などに費やしている。そして、歴史的でヘブライ的な共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)はほとんど無視していると言っても過言ではない。なぜそうなのかを本当に理解しないまま、福音書をざっと読み通しがちだ。「心の貧しい人たちは、幸いである。天国は彼らのものである」(マタイ五・三)などの聖句は美しく詩的に響くが、英語を話す者にとって、この訳が意味の本当の深さを何か伝えているだろうか。
なぜ、共観福音書に出てくるイエスの言葉は理解するのにそんなに困難なのか。この問いへの答えは、共観福音書の基になった最初の福音がギリシア語でなく、ヘブライ語で伝達されたということにある。これは、それ自体翻訳書であるものを、さらに英語に再翻訳されたものを、私たちは聖書として読んでいることを意味する。だから、ギリシア語やそれからの翻訳では意味を成さないような、ヘブライ的表現や慣用句に終始出合うのである。
イエスの言葉や教えがヘブライ的であればあるほど、私たちには(翻訳では)理解しにくくなる。しかし、しばしばもっとも強力なあるいは重要な教えがこれらのヘブライ的な教えなのである。イエスの言葉の多くが事実ヘブライ的慣用句であることから、難解なのだ。
慣用句(イディオムidiom)とは何かというと、ウエブスター辞典はこう説明している。「イディオムとは一つの言語の慣用法における表現であって、文法構成がその言語特有であるか、あるいはイディオムを構成する要素(単語)個々の意味の集合からは派生しない意味を持つという点で特有である」。例えば、英語のイディオムを少し挙げると、kill time「時を殺す」は「暇をつぶす」、hit the ceiling「天井を打つ」は「癇癪を起こす」、eat your heart out「心を食い尽くす」は「悲嘆にくれる」など。イエスが自分の教えを伝える際に用いたイディオムは、ヘブライ的文脈の中で適切に解釈されたときにはじめて理解できるものが多い。
ダヴィッド・ビヴィンは、個人的体験を次のように語っている。
私は十代の頃に聖書研究を始めた。私の出合った最大の困難は、イエスの言葉が理解できなかったことだった。例えば、次のような聖句がある。ルカ福音書二三・三一の「もし『生木』でさえもそうされるなら、『枯れ木』はどうされることであろう」、あるいはマタイ福音書一一・一二の「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」など。
想像してほしい。十代の子供が極めて優れた英訳聖書だとされるキングズ・ジェームズ版聖書を開けて、次の言葉を一生懸命に分かろうとしている姿を。「私は火を地上に投ずるために来たのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それが成し遂げられるまではわたしはどんなに苦しむことか」(ルカ一二・四九~五〇)
私は牧師や教師に、また神学校の教授にそのような聖書の言葉の意味を質問した。その時、得る答えは決まっていた。「君、ただ読み続けなさい。そうしたら聖書自体が教えてくれるよ」
真実を言えば、人が死ぬまで聖書を読み続けたとしても、聖書がそのような難解なヘブライ的文章の意味を解き明かしてはくれないということだ。それらはヘブライ語に訳し戻したときにのみ理解できるからである。だから、私の教師はこう勧めてくれたらよかったのだ。「君はヘブライ語を勉強せよ。その聖句はヘブライ的表現やイディオムだから、ヘブライ語を学ばずには理解できないだろう」と。
神に仕えるこの人たちは私を助けてはくれなかった。しかし、彼らが答えを持っていなかったとしても非難はできない。誰一人彼らは、ヘブライ語が鍵だとは教えられたことがないからである。つまり、新約も旧約も含め、聖書を理解するうえでのもっとも重要な道具はヘブライ語であり、イエスの言葉を理解する鍵がヘブライ語であるとは知らなかったからである。
私は二十四歳のとき、ヘブライ大学で学ぶためにイスラエルへ行った。当時は私は福音書を読むことは止めていたに近い。といっても、聖書を読んでいなかったのでなく、無意識に福音書を避けていたのである。福音書の中にこそイエスの真の言葉と教えがあったのに、である。
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筆者らの意図は、イエスの最初の伝記がヘブライ語で伝達されたことを示すことだが、そればかりか新約聖書全体はヘブライ的観点からのみ真に理解できることを示したいということである。
旧約聖書がもともとヘブライ語で伝えられ、したがって旧約聖書を理解するにはヘブライ語を知ることが重要である。ここまでは、ほとんどのクリスチャンが分かっている。ところが、新約聖書を理解するうえにもヘブライ語がいかに重要かということは、まだ認識されていない。
旧約のみならず新約聖書を含めたバイブルが一貫してヘブライ的であるということは強調されてしかるべきである。新約聖書のある部分は確かにギリシア語によって伝達されたが、それにもかかわらずその背景は全くヘブライ的である。その記者がヘブライ人であり、その文化がヘブライ文化であり、宗教がヘブライ的であり、伝統慣習がヘブライ的であり、諸々の概念がヘブライ的である。
聖書の本文中、その約七八パーセントが旧約聖書で、わずか二二パーセントが新約聖書だが、このことは忘れられがちである。もし新約聖書のうち、かなりの程度、ヘブライ的である部分(マタイ、マルコ、ルカの福音書、及び使徒行伝一・一~一五・三五。新約聖書のおよそ四三パーセント)を旧約聖書と併せて考えてみるならば、ヘブライ語でもともと書かれていた聖書本文はおよそ八八パーセントを成すであろう。(旧約聖書中のアラム語の部分、すなわちエズラ記、ダニエル書は約一パーセント)。ギリシア語で書かれた本文は聖書全体の一二パーセントを超えない。しかもその一二パーセントから旧約聖書からの引用、一七六箇所(ヨハネ福音書中に一四、使徒行伝一五・三六以下新約聖書の終わりまでに一六二箇所)を引けば、もともと聖書中のヘブライ語で構成されていた部分の割合は九〇パーセントを超えるのである。
新約聖書がもともとギリシア語で伝達されてきたとの仮説は、学者や一般の人々の間に誤解を招いてきた。今日、最近の研究成果によって、聖書という文献を理解する鍵はヘブライ語であることが明らかになった。現在まで新約聖書研究でのギリシア語やヘレニズムの学習が極端に偏って強調されてきた。もし、新約聖書、特にイエスの言葉を一層良く理解するために何らかの進展を期したいというのならば、ヘブライ文化と歴史の研究に、とりわけヘブライ語の研究に重点を移すことが必要であろう。
内容説明
「福音書がもともとギリシア語で伝達されてきた」、「イエスはアラム語で語った」との仮説は、多くの誤解をもたらしてきた。最新の研究成果によって、新約聖書を理解する鍵はヘブライ語であることが明らかになった。
目次
第1部 ヘブライ語説の証拠(アラム語・ギリシア語説の検討;言語学上の最近の研究から;聖書外資料からの証言;福音書テキスト自身からの証言 ほか)
第2部 誤解されたイエスの語録(天国を構成する者―マタイ5・3;メシアの自覚を表す引用句―ルカ23・31;天国を襲う者―マタイ11・12;キリストの火―ルカ12・49~50 ほか)