内容説明
南蛮貿易にわく長崎、聖堂でおきた殺傷事件とその顛末。中世都市長崎で何が起きたのか。果してイエズス会はこの事件にどう対処したのか、そして天正15年6月、秀吉が発したバテレン追放令とは何か。「日本は神国たる処…」に始まるこの文書の緻密な分析から歴史の断面が浮び上がる。
目次
教会領長崎における「神の平和」(事件を伝える史料;事件の登場人物;事件の発端;神の平和;教会領長崎の成立)
バテレン追放令(文書の伝来と異同;文書群の系統図;A文書の改訂;捨札;特許状―第四・五条の分析;「音声」と「文書」)
バテレン追放令とキリシタン一揆(史料と研究史;文書と記録の関係―問題の所在;日付の変更―問題の解決法;物語の深層構造;記録の正統性と事実性)
秀吉と右近 天正15年6月18日付「覚」の分析から(テキストと研究史;文書の対象;対象との関係;文書の分析;文書の機能と成立過程)
感想・レビュー
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RYU
1
1587年6月18日の秀吉朱印状(A)と同19日の文書(B。バテレン追放令)を文献学的に分析。Aが基本法でBが追加法という定説や、秀吉変心説(制限から取締)などがあるがいずれの説にも疑問を呈する。1587年に九州を平定した秀吉は全ての宗教を秀吉権力(天下)の支配下におき、平和共存させようとしていた。この宣告文がA。しかし当時キリスト教と相互補完関係(精神的支柱と布教拡大)にあったキリシタン大名の頂点にいた高山右近は殉教者の道を選び、キリスト教の天下への統合は失敗、秀吉はBを発布しバテレンを追放する。2017/11/17
冬至楼均
1
文献史学と言うのが非常に七面倒なものだ、と言うのが分かる一冊。2013/12/27