内容説明
昭和18年春、中国軍最強兵団と対峙する華中最前線の広島二三二連隊連隊長は、功にはやり、煙い二人の大隊長の留守に、部下の必死の諫言を怒鳴りつけ七百の将兵を率い、師団本部に連絡もなく、未知の敵地に侵入する。敵の誘いに乗ってはなりません、の再三再四の諫言も耳に入れず、遂にすり鉢状の谷底に達したとき、周辺の山上から中国軍最精鋭が猛然と姿を現す。激突18時間、六割の将兵が戦死傷―。日中戦争三大悲劇戦の一つである。救援の山口二三三連隊の奮戦で危うく全滅を免れたが、救援の真相はなぜか闇に―。軍は責任を究明せず、連隊長はなんと栄転する。悲劇の日から60年。日本人として初めて現地を訪れた遺族の行年夫妻は問う。なんのための死だったのか?なんのためにこんな奥地まで?国家・軍隊・リーダーという名の愚者を比類なき精密度で分析活写した不朽の名作。奇蹟の生還者が涙を持って次代に遺す平和の礎。
目次
1章 天宝山東方での惨憺たる敗北
2章 九死に一生を得て
3章 惨憺たる敗北はこうして始まった
4章 仕掛けられた罠にはまる
5章 砲と通信は置き去りにされる
6章 辛うじて包囲網を支えきる
7章 救援隊と周辺友軍の動向
8章 天宝山始末記
9章 煮え湯を飲まされた伊藤中尉
10章 四川作戦の概要
著者等紹介
小柴典居[コシバツネオリ]
大正10年島根県津和野町に生まれる。昭和11年山口県立宇部工業学校入学(電気科)。昭和16年歩兵二一連隊補充隊に入隊(島根県浜田市)。昭和17年第三九師団歩兵二三二連隊に転属(通信中隊)。昭和19年第六航空情報連隊に転属(第3中隊・レーダー)。昭和21年復員(鹿児島港に入港)。昭和22年明治工業専門学校通信科に入学(現在の九州工業大学)。昭和25年電気通信省・電気通信研究所に入所(伝送研究科)。昭和28年日本電信電話公社に改編(現在のNTT)。昭和43年九州工業大学助教授(電子工学科)。昭和44年工学博士。昭和45年群馬大学教授(電子工学科)。昭和51年東洋大学教授(情報工学科)。平成4年定年退職
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