内容説明
八木重吉が自編した二冊の単行詩集『秋の瞳』『貧しき信徒』の全篇を収録し、さらに数多い詩稿のなかから156篇を選び制作年代順に二群に分けて収め、それに散文2篇を加えた。
目次
詩集〈秋の瞳〉全篇
詩集〈貧しき信徒〉全篇
拾遺詩稿1
拾遺詩稿2
ジョン・キーツ覚書其の他
小感(吉野弘)
「素朴な琴は」なぜ鳴りだしたか(郷原宏)
その詩の指し示すもの(田中清光)
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
匠
115
読後感は、あぁなんて清らかなんだろうと。でも水の透明感じゃなく、路傍の草花の強さを秘めた柔軟さ、とでも言うべきか。それでもなお届かない何かに儚さを感じているような印象。素直なままに受け取れば何気ない日常のひとコマだったり客観視したものだったりするのだけれど、最後の一行でドキッとさせられる詩が多い。 「花はなぜうつくしいか ひとすじの気持ちで咲いているからだ」 2013/12/16
KI
21
空がある。雲がある。太陽がある。私がある。ここにある。2020/03/15
Kiro
8
短くても詩になるんだな。2021/04/15
あなた
8
八木と谷川俊太郎の詩は似かよっている。これは彼らの世界が〈あるかないか〉の世界に決着=結着していくからである。彼らの詩が読みやすくシンプルかつ奥行き深く感じるのはそのためである。ただし彼らが卓抜しているのは、ある・ないの二元論が詩の過程においてねじれこんでいくところだ。だからこそ、ひるがえってわたしたちはそれを詩だと認識することができるのだ2010/04/04
gecko
4
再読。日本近代の詩人(1898-1927)で、平易なことばを用いた数行の短い詩が多い。「キリスト教詩人」とも評される。生きることの寂しさやよろこびといった自身の心のありようを、外界の、とりわけ自然との往還によってとらえ、それが自ずと詩になるのを静かに待って、ときに苦しみながら生きたのではないか。29歳没。《わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる》(「草に すわる」)《悲しく投げやりな気持でゐると/ものに驚かない/冬をうつくしいとだけおもつてゐる》(「冬」)2020/06/08
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