出版社内容情報
西洋列強による植民地支配の結果、カリブ海の島々は英語圏、フランス語圏、スペイン語圏、オランダ語圏と複数の言語圏に分かれてしまった。そして、植民地支配は、被支配者の人間存在を支える「時間」をも破壊した。
つまり、カリブ海の原住民を絶滅に近い状況まで追い込み、アフリカから人々を奴隷として拉致し、アジアからは人々を年季奉公労働者として引きずり出し、かれらの祖先の地から切り離すことで過去との繋がりを絶ち、歴史という存在の拠り所を破壊したのである。
西洋史観にもとづくならば、歴史とは達成と創造を巡って一方通行的に築き上げられていくものだ。ゆえに、過去との繋がりを絶たれたカリブ海においては、何も創造されることはなかったし、「歴史のない」もしくは「世界史的に重要でない」地域としてしか表象されえない。
……本当だろうか?
“海が歴史であります” ――デレック・ウォルコット
“「目に見える」歴史でなくとも、ここには歴史がある” ――エドワード・ボウ
本書は、『私が諸島である』で「第46回サントリー学芸賞(思想・歴史部門)」を受賞した著者が、カリブ海の風景に沈む地域的記憶を訪ねゆく試みをまとめた一冊である。
西洋の思想家が信奉する歴史の「外」に置かれてきた、カリブ海作家たちが想像/創造するオルタナティヴな思想の精華は、どのような姿をしているだろうか?
“日本には、西洋社会の外から発信される記憶の思想を紹介する本はいまだ少ない。本書は、西洋の直線的な記録に抗い、海のような風景のプリズムを通して屈折し、反射し、揺らぎ重なり合い、形を変えながらも消えることのない記憶の光を描き出す、カリブ海の「記憶の詩学」を紹介する。カリブ海作家たちは、文学を通して歴史を再訪し、解体し、再構築し、そしてその記憶を想像/創造し直す。単線的な時間軸に縛られず、歴史を編み直すことで、かれらは過去へ未来へと縦横無尽に航海する多層的な記憶の物語を紡ぎ出すのである。[…]私がカリブ海のアカデミアに身を浸し、読み続けたカリブ海文学が持つ豊饒さを、読者のみなさんにも体験していただきたい。”――「序章 私たちがいなくなることはない」
かれらの詩学的挑戦に、今こそ刮目されたい。
【目次】
序 章 私たちがいなくなることはない
第1章 カリブ海作家と「記憶」との諍い
第2章 ホモ・ナランス――「遭遇」の記憶を物語ること
第3章 中間航路を読む――奴隷船と底知れぬ深淵の記憶
補 論 逃走/闘争の記憶――奴隷制とポスト西洋的な自由概念としての「マルーン化」
第4章 カリブ海の偉大な叙事詩――革命闘争の記憶
第5章 フラクタル・ファミリーズ――家族と記憶の倫理学
第6章 音楽という記憶装置――植民地支配の傷としてのトラウマ
第7章 植民地の教育と記憶――未来のために振り返る力
第8章 共に祝うために――国家としての記憶
第9章 革命は男の顔をしているか――カリブ海の女性の記憶
おわりに
参考文献
内容説明
自由、革命、家族、教育、国家…風景に沈む地域的記憶を訪ねて。西洋の思想家が信奉する歴史の「外」に置かれてきた、カリブ海作家たちが想像/創造するオルタナティヴな思想の精華。
目次
序章 私たちがいなくなることはない
第1章 カリブ海作家と「記憶」との諍い
第2章 ホモ・ナランス 「遭遇」の記憶を物語ること
第3章 中間航路を読む 奴隷船と底知れぬ深淵の記憶
補論 逃走/闘争の記憶 奴隷制とポスト西洋的な自由概念としての「マルーン化」
第4章 カリブ海の偉大な叙事詩 革命闘争の記憶
第5章 フラクタル・ファミリーズ 家族と記憶の倫理学
第6章 音楽という記憶装置 植民地支配の傷としてのトラウマ
第7章 植民地の教育と記憶 未来のために振り返る力
第8章 共に祝うために 国家としての記憶
第9章 革命は男の顔をしているか カリブ海の女性の記憶
著者等紹介
中村達[ナカムラトオル]
1987年生まれ。専門は英語圏を中心としたカリブ海文学・思想。西インド諸島大学モナキャンパス英文学科の博士課程に日本人として初めて在籍し、2020年PhD with High Commendation(Literatures in English)を取得。現在、千葉工業大学准教授。日本語の著書に『私が諸島である―カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、2023)。2024年11月、同書で第46回サントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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