出版社内容情報
儒教共同体的価値観の重要性を説く徳育論。
古来、<教養>とは道徳的修養であった。今、教養は<知識>と同義となり、<人格>の形成は忘れられた。教養の本義を中国古典学から説く。
教養がある人とは日本人の場合、よくものを知っている人で、知識人という意味と同じである。中国人の場合、教養とは知識とともに道徳的修養が含まれている。今では日中で知識型と人格型に分かれてしまった教養だが、かつては一体化していた。知識を学習することによって人格を高めていくとしていたからだ。その知識とは儒教的古典であった。古典学習が人格教育になるとされていた。現代日本人において<教養>は<知識>と<人格>に分裂し、知識型教養が肥大化している。これでいいのか、なぜ日本人は知識偏重になったのか、人格と知識の新しい結びつきは可能か、可能とすればどのような結びつきか等についてさまざまな面から考察する。目次は、第一部 <古典をめざして>から<古典を通じて>。第二部 漢文は死んだか。第三部 日本人が忘れたもの――道徳教育・儒教教育。補論 大学の死と再生と。日本人の<教養>の復権について語った著者渾身の一冊。
●第一部 <古典をめざして>から<古典を通じて>へ
●第二部 漢文は死んだか
●第三部 日本人が忘れたもの――道徳教育・宗教教育
●補論 大学の死と再生と
内容説明
古来、中国人は「教養」を知識の習得とともに、道徳的修養ととらえていた。そして、学習する知識は儒教的古典であり、その古典学習を通じての人格教育であった。しかし、現代日本人の「教養」は知識と同義になってしまった。かつては知識と人格は日本人においても一体化されていたのに、今は分裂してしまった。両者が再び結びつくことは何能なのか。本書では、道徳教育・宗教教育の重要性を説きつつ、中国古典学の立場から日本人の「教養」を貫ぬくものを明らかにする。
目次
第1部 「古典をめざして」から「古典を通じて」へ
第2部 漢文は死んだか(忘れられた漢文;明治の「教養」いまいずこ;丸山真男の「漢文の理解」;漢文は死んだか;追悼「最後の経学者」)
第3部 日本人が忘れたもの―道徳教育・宗教教育(型の道徳教育―教育勅語;通俗道徳へ帰れ;道徳教育の将来―ゲームソフト学習と礼部小学校の設立と;宗教教育の可能性)
補論 大学の死と再生と
著者等紹介
加地伸行[カジノブユキ]
1936年、大阪生まれ。1960年、京都大学文学部卒業。高野山大学助教授、名古屋大学助教授、大阪大学教授を歴任、現在、大阪大学名誉教授。文学博士。儒教を中心とする中国哲学史の研究を行うとともに、今日的問題についての批判・提言をしている
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