内容説明
キリスト教の根幹をなす正典、新約聖書。だがそこには、意図的な改竄や偶発的なミスによって無数の書き換えが加えられてきた。「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」というイエスと姦通の女の有名な場面も、じつは後世に付加されたものだという。聖典は、なぜ、いかにして書き換えられてきたのか。さまざまな写本を突き合わせ、テキストを徹底的に読み解くことによって改変箇所を特定し、現存しない原初の姿を復元しようとするのが「本文批評」という学問だ。著者曰く、「本文批評の仕事は探偵に似ている」。新約聖書学の権威がその営みを魅力たっぷりに紹介した刺激的な一冊。
目次
1 キリスト教聖書の始まり
2 複製から改竄へ
3 新約聖書のテキスト
4 改竄を見抜く―その方法と発見
5 覆される解釈
6 神学的理由による改変
7 社会的理由による改変
終章 聖書改竄
著者等紹介
アーマン,バート・D.[アーマン,バートD.] [Ehrman,Bart D.]
1955年生まれ。カンザス州に育ち、ホイートン大学を卒業後、プリンストン大学神学校でM.Div.およびPh.D.を取得する。新約聖書学、初期キリスト教史を専門とし、多数の著作がある。現在はノース・キャロライナ大学チャペルヒル校教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
松本直哉
28
より理解困難な文の方がより平易な文より有望である。重い皮膚病の人から癒してくださいと乞われたときにイエスが「怒って」「憐れんで」手を差し伸べたと二つの異文があるときどちらがより原典に近いか。改竄の可能性は前者から後者への可能性の方が高い。あのイエスが怒るはずがないという先入見が原典を書き換えさせ、マルコ伝の破天荒なイエスは慈愛に満ちたイエスに。聖書に限らずどんなテクストの解釈でも、理解不能を理解不能のままに受け容れることの難しさ。2019/07/21
鐵太郎
22
キリスト教が聖典とし絶対のものとする「新約聖書」とは、長い年月の間筆写された写本として年代を経るうちに、意図するしないにかかわらず改竄され書き換えられていったといいます。では、それはどのように行われたのか。その結果どうなったのか。キリスト教はどのようなものであり、どう変化したのか。これは、キリスト教文化の中にいた人しか行えないアプローチですね。ちょっと軽い語り口ですが、中身や考え方は重厚。すべてが納得できるものではないけれど、考え方はわかりやすい。面白い。2020/10/23
ラウリスタ~
13
流し読みしたが極めて面白い。そもそも識字率が低い時代、書記たちは夥しい筆写ミスをおかし、時には理解困難な箇所を勝手に分かりやすく(神学的に)書き換えたりもする。解釈にも関わる重要な例として挙げられるのが、皮膚病患者を「哀れんだ」のか「怒った」のか問題。多数決ではなく、「年代が古く」「より意味の通らない、不自然」なものがオリジナルである可能性が高いと推理。偶発的なミスから生じる改竄だけでなく、神学論争が翻訳にも影を落とす。ルカの優しくあまりにも聖人なイエスの最後はやはり先行マルコらとは違う。それを無視しない2019/08/02
たま
6
終章がめちゃくちゃ良い/全体的に良質なミステリーを読んだような感じ/聖書っつっても結局人間が書いたものだしそもそもこれが「聖書」じゃ〜つってまとめたのも誰かの都合の良いようにまとめただけだし、でも皆主張したいことがあるから元資料を改変したり改竄したりしたんだな〜と思った/人間は自分の読みたい様にしか読まない…解釈で殴り合え2019/06/23
in medio tutissimus ibis.
5
如是我聞、そもそも人はテキストを改変しがちなのである。それは、読むという行為は自分とテキストの関係をさぐるという事だし、書くという事は自分なりに解釈したテキストの意味と照らし合わせてそうするのだから。よって、意識無意識に自分がそう読んだ風にテキストを変えて伝えてしまう。それはもう、生きている限り人間の意識の活動として仕方のない事なのだ。むしろ、そうした働きをテキストに関係した人の生きた証と見てもいいい。畢竟テキストは、読んでも拝んでも無謬の神なぞにお近づきは叶わぬが、人の心を豊かにするがゆえに尊い。2022/12/23
-
- 和書
- 兵隊 (復刻)