内容説明
「これはエクリチュールについての本である。日本を使って、わたしが関心を抱くエクリチュールの問題について書いた。日本はわたしに詩的素材を与えてくれたので、それを用いて、表徴についてのわたしの思想を展開したのである」。天ぷら、庭、歌舞伎の女形からパチンコ、学生運動にいたるまで…遠いガラバーニュの国“日本”のさまざまに感嘆しつつも、それらの常識を“零度”に解体、象徴、関係、認識のためのテキストとして読み解き、表現体(エクリチュール)と表徴(シーニュ)についての独自の哲学をあざやかに展開させる。
目次
かなた
見知らぬ言葉
沈黙の言語
水と破片
箸
中心のない食物
すきま
パチンコ
中心‐都市 空虚の中心
所番地なし〔ほか〕
著者等紹介
バルト,ロラン[バルト,ロラン][Barthes,Roland]
1915‐80年。フランスの思想家、記号学者。シェルブールの軍人の長男として生まれる。カミュの『異邦人』に触発され“エクリチュールの零度”という観念を抱く
宗左近[ソウサコン]
1919年、福岡県生まれ。詩人、仏文学者(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
1 ~ 1件/全1件
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ころこ
47
本書で思い出すのは、数年前にアレクシェーヴィチが福島に来て語ったとき、「的外れ」と暴言を吐いた連中がいたことです。アレクシェーヴィチやナンシーが自らの問題として何かを言いたいのだから、我々の文脈とは解釈が違って当然です。むしろ、我々と違うことをもって、彼らが世界で起こった何かに対して考えたということを有り難く感じない感性とは何なのかと不思議に思います。本書も日本のことを分析している訳ではありません。かといって、何をいっているのか要領を得ない断片の集積が、彼がみた日本のキッチュさを上手く表現しています。2019/07/15
zirou1984
41
23区の中心に存在する皇居に対し「いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である。」と述べたことで有名な、日本を題材としたバルトによる表徴論。表徴とは裂け目である。しかし、裂け目から覗いているのもまた、神聖なる〈無〉を覆い隠すためのもうひとつの表徴であるーこのような視点から和食や俳句、果てはパチンコや全学連までを論じるバルトの眼差しは時に過度なきらいはあるものの、時にはっとさせられる内容もあり面白く読めた。特に、女方について「内部の男性はただ、不在化されているのである」という指摘は白眉。2016/10/23
松本直哉
21
種々の日本の文物を論じた中でも白眉は俳句論ではなかろうか。翻訳という障碍にもかかわらず、著者ならではの切り口で俳句の本質に肉薄しているように思える。桑原武夫の第二芸術論へのアンチテーゼとして読むことはできるだろうか。首尾一貫した主体が明確な個性をもって作品を支配し意味を充溢させるというロマン派的ブルジョア的な桑原の文学観では捉えきれないのが俳句であるが、このような文学観こそバルトが生涯を通じて批判しつづけたものだった。主体から切り離された宙吊りの言葉が、意味に向って開かれる。文学の新たな可能性。2016/06/04
ジョニーウォーカー
19
フランスの記号学者が、わが国の文化を「しるし」という観点でとらえた珍しい日本論。すき焼きについて「斜め後ろに坐った女性が、長い箸を構え、大鍋に材料を補給する。彼女はあなたが目で食べる食物の小さな女オデュッセウスなのである」と大げさに考察したかと思えば、パチンコについては「集団的で、しかも一人ぽっちの遊び」となかなか上手いことも言う。いずれにせよ本人は大マジメのため、その内容はどこか奇妙で、微笑ましい。1970年スイスで出版されたものだというが、日本もまだまだ当時は“東洋の神秘”だったのだろう。2010/02/15
sputnik
17
「日本」という表徴を壮大なロマネスクに昇華した記号論、とでもいえばよいのか。その記号解釈は概ねぶっとんだベクトルに振れており、その意味の滑りっぷりを楽しむというのもそれはそれで一つの楽しみ方ではあるが、禅における公案や俳句を「言語に「見切りをつける」こと」と評したところは達見だし、文楽における女形論などは日本文化を考える上である種の核心を捉えた非常に優れた論考のように思う。そして訳者による解説がすばらしい。この文章がなければ、読書的に路頭に迷っていただろう。2013/04/23