出版社内容情報
『良寛さん』
画と文 植野明磧
今の時代に贈る 次の時代に贈る「良寛絵本」
心温まる笑いを万人に与える。
この良寛和尚の逸話集が、お互いの生活のなかに、いくらかでも、人間らしい本当の笑いを、人間にふさわしい笑いを呼び返せ、お互いの心を温め、お互いの心を豊かにする奇縁ともなってくれるなら、私の喜びは、これに過ぎるものがありません。 (植野明磧)
目次
花びらを拾う/ひとの習い残しを習う/かくれんぼ/涙のわらじ/忘れっぽい良寛さん/銭を拾う/人を拝む/月の兎/障子に書く/川に落ちる/馬鹿正直/馬子と良寛さん/賢愚を超える/良寛禅師戒語/喜びも悲しみも/『し』の字
自然と語る/清貧/賭け碁/お布施の催促/柿もぎ/しらみと遊ぶ/字を書かぬ良寛さん/手まりつき/良寛さま、一かーん/愛の行者/月と泥棒/何でも食う/勘当された周蔵/百まで生きる法/床屋と良寛さん/貞心尼の訪れ/良寛さんの死
良寛さんの生涯/良寛さんを求めて
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良寛さんを求めて
……このように、無明(むみょう)をさまよう小羊にも似たわたしに、偶然ひと筋の光明を投げかけてくれた人、それが良寛和尚だったのです。相馬御風(そうまぎょふう)氏その他の、良寛和尚に関する書物のおかげです。わたしは良寛さんから、「教えるというのは、子どもから学ぶことなのだ」ということを教えられたのです。これまでのわたしは、意気のみ盛んで、子どもたちとは余りにも遠い距離に位置していました。それで、わたしには、子どもの本当の姿が見えないばかりでなく、子どもの声が聞こえなかったのです。人間不在の教育とは、まさにこのことをいうのでありましょう。それからのわたしは、なんとしても子どもに近寄りたいと願いました。それは、子どもと共に遊び、子どもと共に学び、子どもと喜怒哀楽を共にするという教師の生活態度を確立することに他ならないのです。
やがて、わたしは、これまでに聞くことのできなかった子どもの声をかすかに聞き、全く見なかった子どもの姿をほのかに見ることができるようになると、一人一人の子どものかけがえのない命の尊さを知り、子どもたちへの新たな愛情が芽生えてくるのを覚えました。そして、これまでややもすると動揺したわたしの初志を定着させ、生涯この道を行くというわたしの人生の方向を不動のものとすることができるようになったのです。それは昭和五年(一九三〇)のころでした。
子どもを理解することが教育の出発点だといわれますが、この言い易(やす)くして、実践の困難な教育の原理を、極めて平易に、具体的に教えてくれるのが良寛さんです。良寛さんこそ実に偉大な教育者だと言わねばなりません。良寛さんに救われ導かれたわたしが、さらに良寛さんを求める意欲を湧(わ)きたたせるのは当然のことです。わたしは、良寛和尚に関する文献や資料を次から次へと探し求めたのです。……
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著者略歴
植野明磧(本名・植野太郎) 1908年大阪府泉佐野市生まれ。27年、大阪府天王寺師範学校(現・大阪教育大)卒業。教職に就く。48年から勇退するまでの19年間、泉佐野市の公立小学校長兼併設幼稚園長を歴任。その間、30年から子どもらと喜怒哀楽を共にする教育者の道を良寛さんに求め、一方、中学時代から学んだ南画のうえに、36年から保田龍門画伯に師事して日本画を学ぶ。退職後は、良寛研究に専念。自宅を良寛画庵と名づけ、良寛さんの生涯を描く。90年11月死去。
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目次
花びらを拾う
ひとの習い残しを習う
かくれんぼ
涙のわらじ
忘れっぽい良寛さん
銭を拾う
人を拝む
月の兎
障子に書く
川に落ちる〔ほか〕
著者等紹介
植野明磧[ウエノメイセキ]
本名・植野太郎。1908年大阪府泉佐野市生まれ。27年、大阪府天王寺師範学校(現・大阪教育大)卒業。教職に就く。48年から勇退するまでの19年間、泉佐野市の公立小学校長兼併設幼稚園長を歴任。その間、30年から子どもらと喜怒哀楽を共にする教育者の道を良寛さんに求め、一方、中学時代から学んだ南画のうえに、36年から保田龍門画伯に師事して日本画を学ぶ。退職後は、良寛研究に専念。自宅を良寛画庵と名づけ、良寛さんの生涯を描く。90年11月死去
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