内容説明
言語学者である著者はトルコ共和国を1970年に訪れて以来、その地の人々と諸言語の魅力にとりつかれ、十数年にわたり一年の半分をトルコでの野外調査に費す日日が続いた。調査中に見舞われた災難に、進んで救いの手をさしのべ、言葉や歌を教えてくれた村人たち。辺境にあって歳月を越えてひそやかに生き続ける「言葉」とその守り手への愛をこめて綴る、とかく情報不足になりがちなトルコという国での得がたい体験の記録である。
目次
1 トルコ人ほど親切な人たちも珍しい
2 トルコのもう一つの顔
3 言語と民族の「るつぼ」
5 デルスィム地方
5 Y氏との旅
6 「トルコに移住しませんか」
7 トルコ政府の「許可」を得て
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
seacalf
75
控え目に言おう。とんでもなく面白い。紀行文としても抜群に面白いが、これまで学び知ったものとはあまりにもかけ離れた「もう一つの顔」を知ることで常識をぐらぐらと揺さぶってくれる。デルスィム地方の章だけでも、そこいらの小説を凌駕する感動を胸に刻みつける。トルコ語以外は認めない国家の方針のもとで次々と葬られていく少数民族の言語、150万人ものアルメニア人の大虐殺など、いかに歴史を知らなさすぎるかと頭を垂れる。そして、こうした国の歪さは何もトルコだけではない、どの国にも大なり小なりあることに否が応にも気付かされる。2018/02/10
kawa
43
新書「オスマン帝国」に続き、にわかマイ・トルコ・ブームの本書。言語学者である著者の1970年~80年代トルコでの調査研究活動により、クルド民族など少数民族に対する言語統制・迫害の実態を暴く。「オスマン帝国」を上回るようにも見える強権ぶりに唖然。かの地では本書により「1991年中にクルド語などでの日常会話が解禁された。1994年にはトルコ外務省の指示によって『トルコは多言語国家である。日本人言語学者が調査した』」と発表(ウイキより)。が、著者は2003年トルコ政府により国外追放処分されているそうだ。面白い。2024/05/15
k sato
42
著者は現地調査を得意とする方言学者であり、80年頃に16年に渡りトルコ少数民族語を研究調査した。当時、同化政策に舵を切ったトルコ政府は「トルコ国民はすべてトルコ人であり、トルコ人の言語はトルコ語以外にはない、トルコ語以外の言葉はトルコ国内に存在しない」と公式見解を発表した。ゆえに、クルド人をはじめ、「隠れ」「忘れ」少数民族はトルコ全土に散在しているものの、自身の民族、宗教や母語を潜めて生きていた。そのような調査では盗難や拘束の危険が付きまとい、調査の終盤では政府の監視下に置かれてしまう。著者の功績に拍手!2023/01/17
Miyoshi Hirotaka
41
近代は国語に対する忠誠と信頼が必須。近代化過程で書記語や文学語という記録や表現に適した言語が母語として優勢になり、公用語として採用され、行政や教育が体系づけられた。ところが、文明の十字路トルコでは、宗教、民族、言語、国民が一致しない。大帝国が縮小する過程で、干潮で磯に取り残された生き物のように様々な言語と民族の組合せができた。多様性を一律の基準で強権的に上書きしようとすると、それにそぐわない集団は、裏社会を形成したり、弾圧に合ったりする。宗教的同胞が他国で迫害を受けてもダンマリを決め込む理由がここにある。2022/02/24
はやしま
39
新書には珍しくエッセイのような文体(そして上手い)。著者のフットワークの軽さとトルコの地方村落の人々との交流が面白く、グイグイ読ませる。これだけのフィールドワークを重ねた見事な研究内容が政策を脅かしかねないことで最終的に著者が実質的な国外退去処分となったことは、本人にとっても研究対象地域にとっても学問においても悲劇。ここまで少数民族や少数話者の言語を弾圧するような行為を行い、無理に単一国家の体をなすトルコ。親日国家でオスマン朝の流れを汲む歴史ある国という姿からは全く見えない、まさに「もう一つの顔」である。2017/09/03