出版社内容情報
息子はなぜ十字架にかけられたのか。どうして救えなかったのか――。イエスの生涯を母マリアの視点からモノローグで描く野心的作品。
内容説明
母マリアによるもう一つのイエス伝。カナの婚礼で、ゴルゴタの丘で、マリアは何を見たか。「聖母」ではなく人の子の「母」としてのマリアを描くブッカー賞候補となった美しく果敢な独白小説。
著者等紹介
トビーン,コルム[トビーン,コルム] [T´oib´in,Colm]
1955年、アイルランド南東部ウェックスフォード州生まれ。祖父はアイルランド独立運動の活動家。熱心なカトリック信徒として少年時代を過ごす。ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンで歴史と英文学を学び、ジャーナリストとして活躍ののち、90年代から小説を発表。アメリカ各地の大学で創作を教え、現在はコロンビア大学で教鞭を執っている
栩木伸明[トチギノブアキ]
1958年、東京生まれ。早稲田大学教授。専門はアイルランド文学・文化(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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新地学@児童書病発動中
104
マリアの視点から描かれるイエス伝。聖人の母としてではなく、普通の母親として書かれるところが新鮮。イエスが救世主として人々から期待される存在になる前の安息日のことを、マリアは郷愁を込めて振り返る。家族三人で安らかにおだやかに過ごせる時間だった。彼女のこの気持ちはよく理解できる。後に聖母として崇拝されるとはいえ、マリアは何よりもまず普通の良き母親なのだ。自分の家庭の平穏を願わない母親はいない。十字架にかけられるイエスを見捨てことが、マリアの心を苛む。この苦悩がしっかり書き込まれている点に感心した(続きます)2018/02/24
青蓮
93
我が息子であるイエスが起こした事件の数々、丘の上で十字架に磔刑に処されたあの日の出来事。年老いたマリアが過去を振り返る。此処に描かれるマリアは生身の、ひとりの母親だ。人を疑い、逃げるために、生きるために盗みを働く。イエスの功績を書き綴るために訪れる弟子達に反発するマリア。彼女の心情を思うと弟子達が「この世界を罪から救うためにつかわされた神の子だ」と言う言葉に違和感を覚える。マリアがちっとも救われていないからだ。穏やかだった幸福な日々を懐かしむマリアの姿が悲しい。全く新しい聖母マリア像が新鮮な作品でした。2019/03/26
ヘラジカ
57
人間イエスを描いた傑作は数多く存在すれど、一人の”母親”マリア視点から見た小説は今まで読んだことがなかったように思う。マリアの独白はまるで実在する日記のようで、「冒瀆」とされるのも納得してしまうくらいに現実的。文章の合間から抑えられた感情が見え隠れするのだが、その分生きた声としての臨場感と真実味を備えている。気軽に一文一文を読み飛ばせなかった。短い作品ではあるが相当な質量を持った傑作。これまでになかったキリスト教文学ということで、遠藤周作の『イエスの生涯』やジム・クレイスの『四十日』を思い出した。2021/11/10
けろりん
56
【第181回海外作品読書会】わたしに何を語れと言うのか。敬虔に約しく生きてきたわたしに。慈しみ育んだ息子は、近在の若者たちと同様、家を捨て都へと出ていった。結婚の宴に、ごろつきどもを引き連れて現れた男は、わたしを「婦人よ」と呼んだ。冷たい眼差しで。嘲り罵る人の群れに紛れて、罪人が手足を木に打ち付けられるのを見た。息絶える迄の苦しみ悶える時間が少しでも短いことを願った。それは紛れもなくわたしの心臓と肉を分けた者の痛みであったがゆえ。あなたたちが聞きたい話は奇跡か復活か。福音を語る言葉など、わたしは持たない。2021/05/23
ころりんぱ
52
キリスト教のことはほとんどわかりません。聖母マリアが息子キリストの磔前後をどう感じていたか、独白という形でお話は進みます。もともと一人芝居の台本として書かれたものということで、マリアの感情の起伏や秘められた思いなど、静かに時に激しく語られていました。自分の息子が成長し、手を離れて理解不能な事を始めてしまう。人々は息子を崇めるし、息子に自分の言うことは届かないし…息子の運命が大きな波にのまれてしまうのを、ただただ見守るしかない母親のもどかしさや悔しさが溢れています。お芝居で観たい気がします。2015/03/10