内容説明
昭和46年7月、東亜国内航空のYS‐11型機『ばんだい号』が函館空港を目前に墜落。乗客と乗員68人は全員死亡した。そして翌47年、日航機の連続事故により、ニューデリーで90人が、モスクワで62人が命を絶たれた。ミスとは何か?なぜ事故は連続して起こるのか?綿密な取材と大胆な推理により、ヒューマン・ファクター(人間的要因)の真の意味を探った力作ノンフィクション。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
おか
17
大量の付箋で本の厚みが倍になった。この本は飛行機事故の原因究明以上に 人間の尊厳の危機を訴えている、ちょうど チャップリンの「モダンタイムス」の様に。次から次に起きる事故、その原因を不確か 若しくは 人間のミスと片付けてその先(裏?)を追求しない限り 事故は無くならず 亡くなった方々も浮かばれない。ここまで巨大な文明の機器のシステムの中では「機械」か「人間」か どちらが原因と決定づけるのは 無理がある、そのミスに繋がる誘因がある、そこまで探らないと 何も解決できない。飛行機だけでは無い ➡️2016/06/29
KEI
15
「マッハの恐怖」を書いた後、一旦筆を置いた著者に再び記録として残さなければと思わせたのは、71年のばんだい号の事故、ニューデリー、モスクワでと連続して起こった墜落事故だった。乗員、乗客死亡、機体は粉々に破損した状態で、事故調査委員会の「誰に責任があるのか?」「その様な事はあり得ない」と言う姿勢に問いかける。複雑化するシステムと、それを使う人はどちらも完全では無く、人である故に陥る要素もある。それを補完しあい、過去の教訓を生かさなければ、事故は無くならない。古い本であるが、内容は決して古くない。良書。2015/10/31
hayatama
6
後の内田幹樹や畑村先生につながる、事故の原因究明において「誰かの責任を問う」という姿勢は後の事故防止にはつながらない、という鋭い指摘がより前面に出されている。ミスをした者は相応の責任を負うべきであるが、なぜ事故が起きたのかを考えるとき、個人のミスに帰結させることは何の利益も生まない、のだ。福島第一原発にも関係することだが、こういった指摘を今から40年も前にしていたことが、柳田の凄み。あるいは、誰が悪いのだというシステム不在の考え方がこの40年間、全く変わっていない、ということでもある。名著。2014/08/04
ロビー
5
前著、マッハの恐怖を書き上げ、航空事故から筆を置いたつもりが、減るどころか、より深刻化する航空機事故。前作は羽田沖の真相究明を追ったドキュメンタリー的な内容でしたが、今回は「航空機事故がなぜ起こるのか?」にフォーカスをあて、高度化、複雑化する航空システムに警笛を鳴らす。僕が生まれるよりも以前に書かれたこの本の内容は、古びるどころか、現代においてなお通用するテーマを持っている。それはテクノロジーが新しい不具合を生み、事故を呼ぶこと(そして深刻化すること)、防御的立場に立たされたパイロットの心理状態などは現在2014/01/09
卯月
5
職場本棚。『マッハの恐怖』未読だが、扱う事故が異なるので読むのに支障はない。1971年函館『ばんだい号』墜落。翌年ニューデリーとモスクワの日航機連続事故。事故調査の個々の過程は科学的・合理的なのに、報告書を纏める段になると、何で机上の作文になるのか……。事故も怖いが、組織の論理も怖い。パイロットの個人的なミスに原因を押し付けても、今後の安全には繋がらない。ミスだとしても、ミスを誘発した外的要因を解明して改善しないと、という警告。2012/04/06