内容説明
「善人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」日本思想史において、もっも著明な言説ともいえる親鸞の言葉である。でも、なぜ「善人」ではなく「悪人」なのか。親鸞の弟子唯円によって記された『歎異抄』の中のこの一節を、筆者は、おのれの存在論的悪に目覚めた人間が「悪人」なのだ、ととらえる。他者を排除し犠牲にすることによってしか生きられない自分が「いま」「ここ」に在ることの申し訳なさを自覚すること。この澄み切った「悪の思想」こそ、八〇〇年の時空を超えて、現代によみがえる親鸞の思想の現代的意義なのだ。
目次
序章 悪への視角
第1章 思想史のなかの親鸞
第2章 悪人正機の説
第3章 「信」の構造
第4章 悲憐
結章 悪の比較論
著者等紹介
伊藤益[イトウススム]
1955年、京都市生まれ。筑波大学大学院哲学・思想研究科博士課程修了。文学博士。現在、筑波大学哲学・思想学系助教授。専攻は日本思想
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感想・レビュー
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nbhd
16
自己啓発系の本をまともに読んだことはないのだけど、イメージ的には『より強くあろうとする思想』だと思う、言い換えれば「ポジティブな足し算」だ。いっぽう、親鸞さんはつねづね「己の悪を自覚せよ」みたいなことを言っていて、その「後ろ向きさ」は自己啓発とは対照的。だけどそれが、ただの後ろ向きで終わらないで、後ろ向きの底(=悪の徹底した自覚)に至ったとき、「信」につながるといってるわけだから、最終的には「前向き」だ。宗教を問わなくても、親鸞さんは後ろ向きな人にとって、とてもやさしい。読み終わって、こんなふうに思った。2016/07/08
富士さん
4
再読して、ものを信じるという行為の本質を省察した名著なのだと気づきました。本来、救いを求め、頼りすがる行為は個人的なものであるべきで、どうにもならない自分と向かい合って煩悶するからこそのものだと思います。個人を離れた制度としての宗教は、ただの正義を売るサービス業であって、おそらく世界最古のサービス業であり、人の弱さにつけ込み、不安と憎しみを糧に生きる死の商人でしかない。親鸞死後の浄土真宗が衰退したのも、著者の解釈から考えると当然のことで、一人一宗とでも言うべき高潔な精神の表れと解すべきでしょう。2016/09/16
Akiro OUED
3
親鸞:善とは悪の欠如。アウグスティヌス:悪とは善の欠如。裏表。親鸞にとって、弥陀は存在すらできないし、アウグスにとって、人間をミスコピーした神の不出来さは無視できない。よって、弥陀も神も、世界を善でも悪でも満たせない。よかったね。善悪二元論のゾロアスターに行ってみよう。2021/09/09
Takahiro Kanaoka
1
授業の教科書。我らが人文学類の誇る名物倫理学教授であらせられる伊藤益先生の名著。人文学類開講の「倫理学通論」「日本思想」のいずれかを履修して、先生のお話を拝聴した経験のある人が読めば、先生の価値観というか、生き様というか、そういったものに実感を伴った理解ができるかと思います。とかく、この伊藤益の名著、『親鸞―悪の思想』を読めば、世界の全てが分かる!……嘘ですよ?2012/09/14