内容説明
温暖化をはじめとする地球環境の変容が深刻さを増す中で、人間が破壊してきた「自然」をいかにして守るのか―。その問いは「人為」と「自然」が対立することを前提にしている。では、問おう―人間は自然には含まれていないのか?自然は人間と無関係の対象として考えられうるのだろうか?ここにあるのは、古代ギリシアから今日に至る哲学の全歴史を貫く根源的な問いにほかならない。プラトン、アリストテレスからデカルト、ライプニッツ、スピノザを経てディドロ、ルソー、カントを経由し、シモンドンやドゥルーズまで。誰にもなしえなかった壮大な思想絵巻、ついに完成。
目次
第1部 “自然”と“人為”―古代から一七世紀へ
第2部 問い直される自然/人為と“一なる全体”という自然の浮上―狭間としての一八世紀
第3部 “一なる全体”ならぬ“自然”―再び一七世紀から一九世紀へ
第4部 自然かつ人為としての非人間的な“自然”―二〇世紀以降の自然のあり方
第5部 現代的な自然哲学の条件―シモンドンと自然哲学の可能性
第6部 来たるべき自然哲学のために―ドゥルーズと共に“自然”を思考する
著者等紹介
米虫正巳[コメムシマサミ]
1967年、大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士課程中退。博士(大阪大学)。現在、関西学院大学文学部教授。専門は、フランス哲学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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♨️
6
「技術/自然」という対や、「〈一〉なる〈全体〉」というイメージに対する戦いの系譜として、プラトンからシモンドン、ドゥルーズまで(あるいは考えられる「以後」)の自然哲学を追っていく。〈一〉なる〈全体〉の徹底としてのディドロ(個体はなく全ては連続した自然である!(これはスピノザとは明確に区別される))や、20世紀前半の「技術か自然か」ではなく「技術かつ自然」という枠組みで考えていこうという転換(ベルクソン、タルド)に関心を持った。ドゥルーズの「機械」という言い方も哲学史的に跡付けたよみがなされていてよかった。2021/05/24
mim42
5
「自然」についての哲学的言及を横串にコラージュした歴史書。いくつかのテーマ。1.自然/人為の区別はそもそも曖昧。2.〈全〉或いは〈一〉としての自然の否定。読んで良かったかどうかと言われれば「良かった」。が、失望も多い。もうこれは日本の人文学あるあるだろうが、毎度ながら大文字の哲学者の名前を接木する様な価値観が胡散臭い。例えばスピノザを引用するドゥルーズを引用、の様な飯事をいつまでやっているのか。結論も弱い。また自然の哲学、技術の哲学を論じるのに、近現代はほぼフランス語圏の思想しか取り扱いがない。2021/05/21
Bevel
4
〈一なる全体〉としての自然という「思考のイメージ」を辿ること、それはつまり、〈自然〉についての隠蔽と開示の哲学史を辿りなおすことだ。プラトン、アリストテレスから始まり、自然の概念史を総ざらいしていく手つきは、もうなかなか日本でできる人がいないのではなかろうか。人間に先立ち、技術哲学をそのうちに内包するような〈一〉以上のものとして「自然」を出発する自然哲学、このような構想は、構想のままでぼんやりしてるところはあるけれども、「愚かさを傷つける」以上の含意をもつのだろうなと思った。2021/04/01
Go Extreme
3
自然と人為―古代から17世紀へ:古代ギリシア哲学 古代ローマ期から中世まで 自然の逆説 非自然的なもの デカルト・ライプニッツ・スピノザ 自然/人為 問い直される自然―狭間としての18世紀:ディドロの技術論 ルソー・自然と技術 アリストテレス再考 一なる全体としての自然 一なる全体ならぬ自然―17世紀から19世紀へ いかに自然を思考するか 自然・人為としての非人間的自然―20世紀以降の自然 現代的な自然哲学の条件―シモンドンと自然哲学の可能性 来たるべき自然哲学のために―ドゥルーズと共に自然を思考する2021/04/14