内容説明
嘉村磯多は山口県の農家に生まれ、短躯色黒のために劣等感に悩まされた。初恋の相手とは両親の反対で挫折し、結ばれた別の女性とは婚前の不品行を疑い、妻子を捨てて愛人小川ちとせと出奔上京、その体験を「業苦」に書いた。小説の本領は自分の事を書く“私小説”にあるとの当時の思潮を愚直に実践し、自己暴露的な私小説二十余篇を残し昭和八年三十七歳で早逝した特異な私小説作家の秀作群。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
メタボン
28
☆☆☆★ 今の世なれば確実に「DV夫」と呼ばれるであろう作者。自分の色黒へのコンプレックス、妻が処女でないことへの執念深いいじけ、子供への情けない嫉妬、など男としてあまりにものふがいなさに呆れるばかりである。しかし、それを「文学」に昇華させたことが、いまだに読まれる所以なのであろう。「牡丹雪」が一番印象に残った。2019/09/03
oz
13
初読。名門中学を放擲し、家と妻子を捨て女と東京に出奔、極貧と病苦の苦海のなかで早世した男。劣等感の塊でありながら高慢で暴力的、身体性や地方性などの後進性を保持しているが故にどぎついコントラストを負う作風は、苛烈な私小説である。藤村や花袋の自然主義運動が人生の醜悪面を披瀝することを好むも、時代は逆効果として志賀直哉や武者小路実篤のような人生の美しさを題材とする白樺派を生み、文壇で隆盛となる。だが、白樺派の完璧さは何処か鼻白むのも確かで、この壮大な一連の自傷的小説は反として燦然と輝く。西村賢太好きにはマストだ2013/03/21
ウイロウ
11
私小説の極北としばしば称される嘉村礒多。極北ってなんかカッコいいよね。しかしその作品を虚心に読み返してみれば、要するに己れの早婚を悔い、妻が非処女だったと知ってなお一層口惜しがり、義弟の花嫁の美しさをうらやみ、子供みたいな理由で妻に暴力を振るい、家族の関心を引くべく爪楊枝で歯茎を突いて喀血の芝居をし、やがて家に居たたまれなくなって学校の同僚と情を通じ郷里に妻子を残したまま東京へ駆け落ち…って、どのへんが極北なわけ?と思っちまうのだが、兎も角もそういう人生のバカバカしい現実を描き切ってくれた礒多先輩に敬礼!2016/01/22
ウイロウ
11
礒多の処女願望に関して解説の秋山駿があれこれ説明を試みているのが面白く、最終的な結論の当否は措くとしても、ドストエフスキー『罪と罰』に登場するルージンの「貧しいために苦労してきた処女を妻としたい」という願望と比べるあたりは我が意を得た思い。かつて私が聴覚障害の少女と知り合った時に「なんて可哀想なコなんだ、よしオレが守っちゃる」などと思い込んだのも、これと同じ心の働きだったのではないだろうか? 今の私にはあからさまな処女願望こそ(余り)ないが、心身障害者への幻想、薄倖な女への幻想は根深く残っている気がする。2015/06/11
くろまによん
10
妻子をほっぽり出して東京に駆け落ちして貧しい暮らしをするダメ人間系の最高到達点かなぁと思う。彼の苦悩には、時代を隔ててもなぜか親近感を持ってしまう。男であればほぼ全員、心のどこかに嘉村礒多的な闇を抱えているはずなんだ。かく言う自分も例外じゃないが、多くの人はそこを乗り越えて生きている。乗り越えているというか、見ない振りをしているだけなのかもしれない。それができなかった彼の苦しみは、文章に表れている分しかわからないが、そこだけでも凄絶さは十分伝わってくる。2015/03/07
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- 和書
- 月神の浅き夢 角川文庫