出版社内容情報
つねに他者へと開かれ異種混交的な生の現実を否認してきた諸制度-母語,主体性,文学,日本思想等が,ナショナリズムの安逸に奉仕するものとして解体される.新しい社会性の構築に向けてなされる,目のくらむような理論的跳躍.
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ドワンゴの提供する「読書メーター」によるものです。
あなた
3
酒井は「母語」など存在しないといいきる。もちろん「母国」もないだろう。「母」は不在である。だがわれわれは「母語」を見出す。「他者」のプリズムを通して倒錯的な主体を捏造しただちに忘却のかなたへと送りとどける。スチュアート・ホールがいうように「位置性のない発話などない」。つまり、わたしたちはあらかじめ仕込まれた存在だということだ。いまわたしがたっている(と思い込んでいる/いた)位置性をわたしが措定したわたしのいない所から問い直すこと。本書の眼目はそこにあるのではないだろうか2010/07/22
路雨
1
「翻訳」という語を、「言語間翻訳」(ヤコブソン)ではなく、より広い意味の場で活かそうとする粘り強さにはただ驚くばかりだ。伝達は不可能であるという認識は、同じ言語を使用する者のあいだにある透明性をも奪い、必然的に翻訳の実践へと向かわせる。それはとりもなおさず、母語を外国語に異化する実践(プルースト=ドゥルーズ)、国民国家の自己同一性を解体し脱中心化する実践でもあるだろう。2025/12/17
たぬき
0
僕をご説明させてください2011/05/02
Daimon
0
難しかった。常に全体に回収されえない、語り得ない場所としての主体の位置が、つまり主体として語ることのできなさ。最終章は、死と詩である。死という究極の主体の不在、それ故に詩によって到達しうる政治の外部としての非政治性が翻るとき。「それは、何かある特定の政治制度の変革を目ざしたわけではない。[…]それは異質的なalterityが同一なるものへと統合されそして一般化されていく、終わりなき歴史的言説の流れに干渉するのである」(pp.280〜281)。2018/03/20




