本書の背表紙を店内で見た時に、from left to rightという横文字が気になった。開いてみると、なんと、小説なのに横書きだった。裏表紙には「本邦初、横書きbilingual小説の試み」と書いてある。作者が『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(未読)の著者だと気づいたのは、愚かにも、この小説を読み終えてからだった。 著者は、12歳の時に渡米した。この『私小説』は、渡米後30数年経過した時に発表された。著者自身の米国での成長経験を、文学と言う形式で回顧している。まさしく小説の名を借りた私的な記憶の再生だ。おそらく、少女時代は、母国語である日本語と生活と学習のことばとなった英語との間で、精神的な軋轢を感じたのだろうと思う。 英語の運用能力を身につける過程で、湧きおこった日本語への愛着が随所に感じられる。あえて横書きを選択し、英文(和訳無)を散りばめたのも、英語の視点から、日本語の美しさを表現したかったのだろうと感じた。 シェリー酒でほろ酔い気分になり、「日本語の懐古文による雅」を語る場面では、文章が蛇状曲線にように悶え、横書きの呪縛から逃れようとのたうっているのが視覚的にも分かるようになっている。 さらに読み進めると、柱のように三列で挿入された縦書きの「美しい花」も目に飛び込んでくる。「し」という縦に伸びるひらがなのしなやかさ。「縦に大きくおおらかに流れた漢字とひらがなは、横に蟻のようにぎっしりと並んだalphabetとは全く異なる世界を眼の前に喚起するのであった。」この記述は、著者が日本から離れて初めて気がついた日本語の特異性だろう。 結末では、子どもの時いらい縁がなくなっていた日本での正月へ思いをはせる。「珍しい日本語が氾濫する特権的な季節」。ニューヨークでの物語の展開を楽しみつつ、母国語である日本語の重要性を改めて悟らされた読書となった。