内容説明
帝王カラヤン、獅子王バックハウス……。そして日本には、「天皇」と呼ばれる音楽家がいた。井口基成。16歳でピアノを始めるという晩学ながら、東京音楽学校(現・藝大)を首席卒業、パリに留学し、帰国後は男性ピアニストの先駆者、母校の教授として第一線で活躍。戦後は、斎藤秀雄、吉田秀和らと「子供のための音楽教室」を立ち上げ、桐朋学園大学へと発展させる。さらに楽譜校訂者として、古今のピアノ曲を網羅する『世界音楽全集』全49巻を編纂した。長く演奏と教育を両立させ、同じくピアニストの妻秋子、妹愛子と併せ、門弟は3000人を数え、内外のコンクールを席捲する一流演奏家を輩出。ピアノ界のみならず音楽界に、今に至る多大な影響力を及ぼした。いっぽうで、酒と美食に明け暮れ、スキャンダラスな私生活、体罰も厭わぬ指導など、負の側面も併せ持つ。取材は20年におよび、すでに故人となった関係者からも貴重な証言が語られている。この巨人の全貌にはじめて辿り得た渾身の評伝ノンフィクション。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
trazom
94
ピアニストとして、そして、音楽教育者としての井口基成先生の偉大さだけでなく、戦前から戦後の音楽界の動きがとてもよくわかり、大変面白い。パワハラとしか言いようのない基成先生のレッスンの厳しさは有名だが、その背後にあるこの先生の人間的な魅力がよく描かれている。井口一門と言っても、秋子先生、愛子先生、基成先生それぞれの違いもよくわかる。ただ、本書は、基成先生の女性問題、井口家の修羅、吉田秀和先生や斎藤秀雄先生の闇など週刊誌的な話題が多く(それはそれで面白いが…)、ピアニズムなどの音楽的な分析が乏しいのが残念。2022/08/27
松本直哉
27
中学生のころ、白い表紙の印象的な井口基成校訂のパルティータの楽譜で勉強してバッハの世界に開眼した私にとって井口は恩人のような存在。ドイツ一辺倒なのかと思っていたら留学先はフランスでイーヴ・ナットに師事、早くからスクリャービンに取り組み、バルトークやラヴェルの出来立てほやほやの協奏曲を日本初演するなどレパートリーは幅広い。加えて校訂者そして教育者としての八面六臂の活躍は、近代日本の音楽史そのものといってもいい。20年以上かけた各方面への取材から得られた貴重な証言から、豪放磊落にして繊細な人間像が浮かび上がる2024/02/28
都人
5
私は50年にも及ぶクラシック音楽のファンだが、井口基成の名前を知ったのは、今年の6月に小沢征爾氏の「兄弟と語る」を読んだときだ。日本のクラシック音楽の歴史・桐朋学園の歴史の詰まった600pの本だ。馴染みのある音楽家がそれこそキラ星のごとく登場する。 8月11日、中丸美繪著「斉藤秀雄の生涯、嬉遊曲鳴りやまず」を読む。クラシック音楽ファンにとって至福の時だ。 8月17日、中丸美繪著「朝比奈隆 オーケストラ、これは我なり」を読む。大変面白く拝読した。この二冊はこのブログで検索しても出て来ない。ここに書く。 2022/08/01
Toshiyuki Marumo
3
とても読みごたえがあった。 戦前、戦中、戦後を生きた一人の巨人であるピアニスト・教育者としての井口基成は、恐るべきエネルギーの人であると同時にひどく悲しい孤独な人でもあった。 晩年の井口の修羅の姿は、巨大な夕日が赤く燃えながら沈んでいくのをただ見守る時のような寂寥と無常を感じさせる。 この本の記述の中には現役の音楽家やその家族にとって触れてほしくないであろうエピソードも数多く描かれている。 それを描く、描かざるを得ない著者の中村美繪氏の内面にもまた修羅があるのではないかという感慨も浮かぶ。2022/08/07