内容説明
ヨーロッパにスケッチに出かけ、中国で三国志の時代に思いを馳せる。インドネシアの熱、韓国の冷気、そして日本の忘れがたい町々……。土地の飯を喰らい酒を飲めば、酔うほどに旅は自分の生活になる。名優・中尾彬が、自然体でのんびりと旅先を楽しんだ、地球サイズの旅行指南書。読むと旅に出たくなる!
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ナウラガー_2012
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ジャンプ台を寄贈。このジャンプ台は「竹鶴シャンツェ」と呼ばれ、このジャンプ台で練習し、後にニッカウヰスキーに入社した笠谷幸生は『日の丸飛行隊』と呼ばれる世界的なジャンプ選手となり、1972の札幌オリンピック(70m級ジャンプ)で金メダルを獲得。竹鶴シャンツェに併設された笠谷シャンツェでは余市出身の船木和喜や斉藤浩哉といった選手たちもここでジャンプを覚えた/”どぜう”と書くのは、”どじょう”だと四(死)文字で、生ものを扱っている商売の暖簾には縁起が悪いから2020/01/12
ナウラガー_2012
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大日本果汁株式会社(日果)を設立。ウイスキーは製造開始から出荷までに数年かかるため出荷までは当然ウイスキー製造による収益はない。そこで竹鶴は、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行った。1961に妻リタ死去の際に、義理の孫(威の息子)である竹鶴孝太郎曰く「大人がそれほど取り乱すというのは初めて見た」というほど、「おばあちゃんが死んじゃった」と家中で泣き喚いていたという。余市中学校(のちの北海道余市紅志高等学校)校長に頼まれ、1941、中学校に2020/01/12
ナウラガー_2012
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マルスウイスキーの間接的始祖。「日本のウイスキーの父」。26歳の時に竹鶴はスコットランドでウイスキー造りを学んでいて、リタと呼ばれる24歳の女性と結婚した。1923に寿屋(現在のサントリー)が本格ウイスキーの国内製造を企画。社長の鳥井信治郎がスコットランドに適任者がいないか問合せたところ、「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を得、年俸四千円という破格の給料で採用し寿屋に入社。10年後に理想のウイスキー造りを目指し北海道余市に工場を建て(現在の余市蒸溜所)2020/01/12
ナウラガー_2012
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が出る」/【フグの卵巣】猛毒の卵巣を二年間糠漬けにすると毒が消る/【米沢牛】明治4年(1871)に藩校興譲館の外国人講師、チャールズ・ヘンリー・ダラスが任期を終えて横浜に帰る際にお土産として米沢牛を一頭持帰り、これを試食した居留地の外国人たちはその美味に感嘆したのが始まり/【松川温泉(岩手県)】日本初の地熱発電所として1966年に竣工/竹鶴政孝(1894-1979):広島県竹原市出身の日本の実業家。ウイスキー製造者、技術者。会社経営者。ニッカウヰスキーの創業者であり、サントリーウイスキーの直接的始祖2020/01/12
ナウラガー_2012
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おもてなしさせていただきます」という意味がある。福砂屋のカステラ/”三月だおれ(三か月分の収入をこの日のためだけに注込む)”と呼ばれる「唐津くんち」/金沢・兼六園(宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望の六つを兼ねるの意)、「治部煮:加藤清正公の厨房頭で日本へ朝鮮から初めて豆腐を持ち込んだ人、岡部治部衛門の発案で、鶏肉と生麩、冬の青菜、大根と人参が入ったとろみ仕立ての椀物」、「山中温泉:”こおろぎ橋<冬には危なく、行路危橋>”があり、山中節には夜の夜中にシシ(芸者、昔は四四・十六歳で座敷へ湯女として出た)2020/01/12
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