内容説明
暴力をうけた人はそれを話すことができるだろうか。語ること、聞くこと、伝えることをめぐる、温かく深みのあるエッセイ。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
踊る猫
28
著者は様々なトピックについて触れる。トラウマを越えて証言すること、ムスリムへの差別、旅をすること……共通点を(無理矢理に?)見出すならそれは「未知のものを既知の中に見出す」作業の謂ではないかと思う。例えば私はしばしばムスリムをテロリストとして捉え、その反動として(?)信心深い人たちと捉える。だが、それは単に「俗情」(大西巨人)をなぞったものにすぎない。彼らについてもっとよく知り、考えてそこから言葉にすること(その過程に困難さがあるとするならそれはなぜか考えること)。そんな繊細な作業に私たちを誘う一冊と思う2022/02/13
くさてる
24
暴力を受けた人はそれを話すことが出来るだろうか。ホロコースト、ハイチ、ユーゴスラヴィア、アブ・グレイブ、さまざまな場所と時間で暴力の犠牲となった人々は、どうやってその言葉を手に入れることが出来るのだろうか。戦地を取材したジャーナリストの真摯な問いかけに、わたしも読んでいて言葉に詰まる思いになった。聞き手となり語り手となり、あらゆる種類の暴力が組み伏せてきた感情をかたちにする困難さをどう考えていけばいいのか。凄惨な状況も登場しますが、それでもグロテスクさはないのです。静かで冷静で祈りのような文章です。ぜひ。2020/05/23
kei
16
ジャーナリスト、カロリン・エムケのエッセイ。被害者の声を聞くこと、というのはただ話を聞くだけではなく、被害者が「話すことができる」ようにならないと声を聞くことはできないということも含め、難しかったですが、偶然図書館で見つけて読むことができて良かったです。2020/04/27
チェアー
15
「言語に絶する」と安易に逃げてはいけないんだなと思い知らされる。その言葉にできない光景や経験を、言葉にしようとする努力をすることが必要なのだ。もしその人が言葉にできないのなら、バトンを受け継いだ別の人が言葉にしなければならない。人間が残すのは記憶と記録しかない。言葉がなければ、人間のかなりの部分は損なわれてしまうのだ。2019/12/29
きゅー
14
著者はドイツ出身のジャーナリスト。コソヴォなどの紛争地域に赴いて、さまざまな対話と出会いを体験したという。人々が難民キャンプ、収容所などで受けた絶望や痛みは「まるで果物の皮のように、それを体験した人を覆い、閉じ込めてしまう。」と、エムケは書いている。そして「極度の不正と暴力という犯罪の最も陰湿な点は、まさに被害者を沈黙させることにこそある」。徹底的な暴力は、暴力を受けた者に屈辱を根付かせ、自分は暴力を受けるに値する者だという認識の歪みを与える。2021/01/29