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内容説明
「坐禅」をする本当の意味とは?
“ブッダの教え”― その本質がわかる!
曹洞宗の僧侶で、現在「恐山」院代を務める著者が、
「悟りとは何か」「涅槃とは何か」「私とは何か」について、真正面から対峙する。
「悟りを開くために、坐禅をするのではない」―。
今までにはなかった、まったく新しい「アウトサイダー仏教論」。
「仏教」は何を問題としているのか?
● 人が「宗教」を求めるとき
●「なんとなく不安」―その正体を考える
●「死」そのものは誰にもわからない
● 老・病・死が“生存”の条件
● 一神教の“重さ”と仏教の“身軽さ”
● 何が“善”で、何が“悪”か
● 苦しいのは「自己」に根拠がないから
●「悟った上にも悟る」の真意
●「前向きに生きる」必要はない etc
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
禿童子
22
前半は、仏教の「無我」「無常」「縁起」「因果」「業」などのテクニカルタームについての南さんのオリジナル解釈。中盤は座禅をするときに実際に感じられる現象と、それが「悟り」ではないことについて詳細に説明されて、大いに参考になりました。後半は、「学校」と「介護」を中心とした現代人の悩みに対する実践論。なんとなく実存主義のベースに仏教(特に道元)のものの見方が組み合わされていると思います。修行者として、というよりも苦しんでいる人に寄り添うという姿勢が感じられる好著です。2018/10/05
さっちも
17
著者の本を読むと、世の中と適当に距離を保って、あらゆる出来事をいなしながら生きていけるような気がする。初めて読まれるなら、為末大との共著「禅とハードル」からがオススメです。2019/12/01
rigmarole
17
印象度B+。第三章までは思弁に走り、宗教というより哲学でしょう。舌鋒も他著に増して鋭い。ですが第四章は一転して(と私は見受けます)家族や学校における生活実践に関する著者の持論が展開され、それまでの「無常」「無我」についての議論とのつながりが私には不明瞭。ただ、そこでの師の見解は鋭くまた通念とはかなり異なっているので、一読の価値はありです。「幸せになるのをやめる」はなるほど、かつ同感。しかし最後の、「自己」の根拠を他者との関係に求めるあたりは、まだ「自己の意味」に対する拘りが残っていると思わざるを得ません。2017/12/26
アルカリオン
9
坐禅は特殊な身体状態をテクニカルにつくりだすことができる。しかし、それは仏教の「悟り」とはまるで関係ない。もし、特殊な体験の結果、この世のすべてがわかってしまうような出来事を「悟り」だと考えるなら、それは「妄想」というものであり、「悟り」の錯覚に過ぎない。仏教のテーマは、そんな浅はかな「悟り」ではなく、あるものの見方や考え方、そして生き方の提案であり、言わば、その全体を「悟り」と称する、と受け取るべきである。そしてそれは、特定の境地に留まることではなく、実践の反復による、決して完結しない修行である。2018/04/30
アルカリオン
9
書名の主題に正面から取り組むとともに、そこから派生する論点及び現代社会の風潮への考察を論旨明快な文章でつづっています。繰り返し、熟読しようと思います。「『輪廻からの解脱』は『輪廻という考え方からの解脱』と考えればよい」(p86)という捉え方は、昨年、平野純氏の著作から着想を得て、私が個人的にたどり着いた考えと同じであり、驚くとともに大変、心強く感じました。2018/04/24