内容説明
無の深淵が口をあけ虚無の底に降り立った中世日本に日本浄土教を大成した二人の祖師がいた。定住型の親鸞と漂泊型の一遍という、全く対照的な生き方と思索を展開した両者の思想を、原典に現代語訳を付して緻密に読みこみ比較考量、日本文化の基層に潜む浄土教の精髄を浮き彫りにする。日本人の仏教観や霊性、宗教哲学の核心に鋭く迫った清新な論考。
感想・レビュー
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maqiso
4
浄土三部経に十念か一念と三心によって往生すると書かれていることから法然の浄土教が起こったが、凡夫に三心は可能かという問題も生じた。親鸞は三心とは如来が賜る一心であるとし、他力の立場を徹底した。一遍は三心は名号のうちにあり、称えた名号と一体化することで往生すると説いた。親鸞は自らの信心を見せることを利他行としたが、一遍は遊行して人々に名号を伝えると同時に現世的な手助けも行った。2022/04/07
飯田一史
0
大乗仏教の興りから浄土教の流れを整理し、定住と遊行、妻帯と離縁など対照的に見えるふたりが、共に自力を否定し、このままにおいて救われるしかないとする点で呼応すると論ずる。2020/01/28