内容説明
精神と肉体、芸術と生活の相対立する二つの力の間を彷徨しつつ、そのどちらにも完全に屈服することなく創作活動を続けていた初期のマンの代表作2編。憂鬱で思索型の一面と、優美で感性的な一面をもつ青年を主人公に、孤立ゆえの苦悩とそれに耐えつつ芸術性をたよりに生をささえてゆく姿を描いた「トニオ・クレーゲル」、死に魅惑されて没落する初老の芸術家の悲劇「ヴェニスに死す」。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
匠
151
『ヴェニスに死す』の映画版を先月観たばかりで、マーラーの交響曲第5番を聴きながら読んだ。2篇とも芸術家を主人公にしているが、『トニオ・クレーゲル』は青年芸術家の芸術性への苦悩、『ヴェニスに死す』のほうは老年作家の美への苦悩が対照的に描かれていた。自分の年齢的なこともありトニオに共感する部分が多かったが、感性の赴くままに美に陶酔し、傍目からはストーカー的になっていく初老のアシェンバハのプラトニックで甘美な想いはせつなすぎた。彼を虜にしてしまったポーランド人の美少年はエロスかタナトスか。そのどちらにも見えた。2014/09/05
ケイ
130
アッシェンバッハの胸を貫いた14歳のタッジオ。水着を身につけていても、それを透かしてナルシスの如き肢体が見える。その瞳と視線の持つ力。ヴェニスの水路を囲んだ古い街並みやゴンドラ、光る海を背景にした耽美的な美しさへ、拡張高いこの訳が連れていってくれる。なんと幸せな死とは言えまいか。タッジオが振り向いて彼にみせたものが最期の光景なら、何を思い残すことがあろうか。相手が少女でなく少年であり、必死で目で追う美しさに、不純なものは感じない。この死はひとつの昇華したかたち。2020/03/25
催涙雨
67
トニオ・クレーゲルはほんとうにすごい作品だった。これは現代の人間にも通底する考え方だと思う。当時からこういった感じ方がある程度自然だったことを思うとおそろしくもある。生きることに素直な悦びを感じて楽しい生涯を送ろうとする者。生命を謳歌する彼らの存在は“感情”をシンボライズしたようなある種の象徴的イメージを与える。一方、直線的な生き方の難しい自我に生まれついたトニオは彼らに対して憧憬、羨望、嫉妬…言葉にならない観念を抱きながら生き続ける。トニオはいわゆるスポーツなどの活発な遊びに興じない内省的な青年で、彼が2019/06/21
NAO
67
「ヴェニスに死す」理知的な作品を書くことで名の売れた老作家が、ヴェニスで出会った美少年に魅了される。ギリシヤの美少年を思わせる中世的な少年は、美の象徴。芸術は理性によってのみ描かれるものではない。どれだけ理知的な文章を書いても、そこに必ずしも美が宿るとは限らない。ましてや、「美」を描いてみせても、自らが「美」になることはできない。芸術とは何か?芸術家とは?いろいろ考えさせられるが、それでも老作家の最後は悲しすぎる。2016/10/02
けろりん
53
創造者たるには世俗の幸福を棄て去らねばならぬ。清らかな憧憬や温かい愛情に背を向け、牢固なまでの勤勉に心臓まで凍えさせ、身を削るように研ぎ澄まされる芸術精神。若き作家の内にある、情熱と憂鬱。相克する感情を抱きながら彷徨する孤独な創作の道程を切実に深湛な言葉で綴る『トニオ・クレーゲル』若き日のトーマス・マンの自己投影とも読める本作。優れた友人への独占欲や微かな妬心、恋慕する相手に自分が注ぐ情熱と同等の炎を見出せぬ悲哀、懐かしい故郷で取り戻す純粋で無垢な感情。ごく平凡な心の有り様に深く共感し、時間をかけて読了。2020/05/04