禅仏教の哲学に向けて

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  • サイズ B6判/ページ数 370,/高さ 20cm
  • 商品コード 9784906791248
  • NDC分類 188.8
  • Cコード C1014

内容説明

日本の宗教と芸術の最奥へ。禅と哲学―不立文字の核心に、今日の思想と言葉で迫る。東西宗教哲学の呼応と交叉を、その最深部で捉えようとする、繊細にしてダイナミックな井筒宗教思想の冒険。英文遺著本邦初訳。

目次

1 無位の真人―禅におけるフィールド覚知の問題
2 自我意識の二つの次元
3 禅仏教における意味と無意味
4 分節の哲学的問題
5 公案を通じての思考と非思考
6 禅における内部と外部
7 東アジアの芸術と哲学における色彩の排除

著者等紹介

井筒俊彦[イズツトシヒコ]
1914‐93年。言語学、イスラーム学、東洋思想、神秘主義思想など、広範な領域にわたって斬新な業績を残した現代の知の巨人。慶應義塾大学にて西脇順三郎に師事。言語学者として出発する。1954年、同大学文学部教授。67年より82年まで、エラノス会議に正式講演者として参加する。カナダのマギル大学、イラン王立哲学研究所の教授を歴任。この間、イスラーム学の碩学としての世界的評価を確立する。82年、日本学士院会員

野平宗弘[ノヒラムネヒロ]
1971年生まれ。専攻、ベトナム文学・思想。95年、東京外国語大学外国語学部ベトナム語専攻卒業。2007年、同大学院地域文化研究科博士後期課程修了・学位取得。2003‐07年、慶応義塾志木高等学校、東海大学にて非常勤講師、2007‐13年、中国アモイ大学にて日本語教師を勤める。2013年より東京外国語大学講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー

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roughfractus02

6
禅の修行は分節された言葉からコスモス的世界から、無分節のカオス的実在へのシフトを目指す。その目的自体が忘れ去られる時、実践は成就される。弟子の「祖師が西から来た意義とは何か」という問いに師が「庭の柏の木だ」と即答する禅問答では、無意味が実在への一歩となる。無意味さが分節と意味の間の秩序/コスモスを組み替えると、川は止まり、橋が流れる。「無位の真人」が実在に触れる「覚知」を誘発する坐禅では、小石が竹にあたる時、音を聴く者が音となる。本書は、禅を実践する著者の縦横無尽の知が理解の外へ向いている様を示し続ける。2021/01/29

tuppo

3
聞け、鐘が今鳴っている。あなた方はその音を聞いている。正しくいうならあなた方は全く永遠に止むことなく鐘がなる前でさえもそして音が実際に聞こえる前にも鐘の音に気づいているのだ。2016/12/08

ظاهر

0
名著すぎた2015/08/03

matsu

0
意識は「何かについての」意識である、と言ったのは確かフッサールだったと思うが、フッサールはそこから間主観性を打ち立てた。一方、禅は「何かについての」意識、主観と客観に別れた世界認識を否定する。全ては空であり、一でなければならない。一見堅固にみえる主観と客観の絶対的関係もまた仮象なのである。デカルトは考える「私」、つまり主体以外は懐疑により実在を疑い得るとしたが、禅はさらに主体すらも疑い、無に至らしめる。2015/01/18

LIBRARY MASTER.

0
「高度な集中の状態のみが持続されるべきであり、心は深く沈み思考と概念の領域を超え、幻影visionsの潜在領域を超え<存在>の一点集中された覚知に入るまで深く沈んでいく」曹洞宗の坐禅に関する一節を抜粋、図書館本なのだが鉛筆でマーキング有り(偶にある、禁止行為なのだが見つけるとちょっと嬉しい)2025/04/05

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