内容説明
水半球に横たわる「見えない大陸」(ル・クレジオ)、ポリネシア。フィジー、トンガ、クック諸島、タヒチ、そしてラパ・ヌイ(イースター島)へ。アオテアロア=ニュージーランドを拠点に、太平洋の大三角形の頂点を踏みしめ、旅について、旅の記述について、行くことと留まることについて、こぼれ落ちる時間のなかから思考をすくいあげる生のクロニクル。
目次
フィジーの夕方
湖とハリケーン
ヌクアロファ
最後の木の島
オタゴ半島への旅
タンガタ・フェヌア(土地の人々)
青森ノート
見えないけれどそこにいる、かれら
「世界写真」について
ほら、まるで生きているみたいに死んでいる〔ほか〕
著者等紹介
管啓次郎[スガケイジロウ]
1958年生まれ。翻訳者、詩人、比較詩学研究。明治大学大学院理工学研究科ディジタルコンテンツ系教授(コンテンツ批評、映像文化論)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
スミス市松
20
現実に行われる旅が数多くの日常的習慣に彩られた縦(時間)と横(空間)の移動の繰り返しでしかないとすれば、旅を終えたあとの心の中で想起される旅、記述される旅こそを「斜線の旅」と呼ぶ。つまり、私たちが旅に斜線を引くとき、心の中ではある土地と別の土地が、そこで出会った人々とこれまでに出会った人々が、縦横のグリッドを飛び越え直接的に連想的につながっていく。2018/03/20
マリカ
12
「かけ離れた土地が誰かの生涯において突然に、長い斜線を引くようにしてむすびつけられることには、どこか人を魅了するものがある。」(p14) 管さんは旅についてそんなことを言ったが、これは絵画や映像、文学、音楽、会話に接し、自分の中に囚われていた意識が非日常の原野に解き放たれるときにも起こることだ。斜線がむずびつけるものは必ずしも共通点だけではない。自分にしか感じられないかすかな徴と徴が無意識下で斜めにリンクし、新しい絵や物語、旋律が浮かび上がらせる。果たしてそれは単なる幻想なのだろうか。2018/09/23
gu
6
管啓次郎の著作の中では比較的ストレートな旅行記だ。しかしながら、様々な土地と人との出会いを語る文章はヨーロッパ批判という隠れた主題に貫かれているように感じられる。ヨーロッパにもたらされたもの、奪われたもの、変わらずにあるもの。観念的であると同時に身体的な旅。目の前の風景に対する詳察が、現在の世界を織りなす「斜線」を浮かび上がらせる。望むと望まざるとに関わらず「かけはなれた」もの同士を結び付ける社会の中で、それらを解きほどき自分なりの結び目を作るのは旅と読書だ。2021/08/17
gu
6
旅行(記)の可能性と不可能性。「かけはなれた」もの同士を「長い斜線を引くようにして」結びつける旅の魅力を読書行為にも当てはめてみたくなる。ペソアの『不穏の書』を思い出しもした。確かな自分が行動するのではなく、不確かな自分が流転し変化させられることが旅の本質に近いんじゃないかと思えたので。「何度でも答えよう。生きるための役に立つよ。覚醒するための役に立つよ。旅が意識を変えるのとまったくおなじように、芸術作品は意識を変える。(中略)変わった意識は、それまでは予測もつかなかった、新しい方向をめざすようになる」2014/04/20
niaruni
3
wanderlustを刺激される。旅行ではなく、旅に出たくなったけれど、今の自分には旅は物理的に難しい。でも、この本には、そういう大人の抱える物理的な束縛感をどういなして、それとどうつきあっていけばいいのか、心構え(ヒントでもある?)も書かれているような気がする。2011/02/12