目次
第1部 結核の病勢がまだおだやかに進行している―一九四三(昭和十八)年六月~一九四六(昭和二十一)年九月八日(結核療養所から帰り自宅療養が始まる‐俳句から短歌へ―一九四三(昭和十八)年六月~一九四四(昭和十九)年十二月
病床に就き二年‐戦い(第一次世界大戦)激しくなる・リヤカーに乗って避難―一九四五(昭和二十)年一月~六月二十四日 ほか)
第2部 激しい喀血がつづく―一九四六(昭和二十一)年九月十九日~一九四九(昭和二十四)年十二月(喀血始まる‐吐きし血潮泡立つ―一九四六(昭和二十一)年九月十九日~一九四七(昭和二十二)年十二月
激しい喀血‐悲しみは限りなくして―一九四八(昭和二十三)年一月~一九四九(昭和二十四)年十二月)
第3部 癒える兆し‐抗結核薬の使用―一九五〇(昭和二十五)年一月~一九五六(昭和三十一)年十二月(床ずれが痛む‐はじめてストマイ十本を打つ―一九五〇(昭和二十五)年一月~一九五一(昭和二十六)年十二月
這って縁側に出る/庭に立つ/庭を歩く‐ストマイ四十本を打つ―一九五二(昭和二十七)年一月~一九五四(昭和二十九)年十二月 ほか)
第4部 将来への模索と展望―一九五七(昭和三十二)年一月~一九六二(昭和三十七)年五月(将来への模索/霧の中を歩むがごとし―一九五七(昭和三十二)年一月~一九五八(昭和三十三)年十二月
大学医学部の受験を決心―一九五九(昭和三十四)年一月~一九六〇(昭和三十五)年十二月 ほか)
第5部 医師として妻と歩む―一九六七(昭和四十二)年三月~二〇〇九(平成二十一)年八月(医学部を卒業し医局員として勤務を始めてから―一九六七(昭和四十二)年三月~一九七〇(昭和四十五)年一月
母死亡。東京逓信病院呼吸器科に勤務。そして結婚―一九七〇(昭和四十五)年二月~一九七八(昭和五十三)年六月 ほか)
著者等紹介
佐藤信英[サトウノブヒデ]
父の仕事の関係で幼少時代を中国奉天(現瀋陽)で過ごす。旧制東京高校1年生の時(16歳)肺結核を発症。10数年を結核と闘い療養生活を送る。1944年秋(18歳)、「アララギ」に入会。「アララギ」終刊後は「青南」に所属。1960年大学検定試験を受け、1962年東京医科歯科大学医学部を受験し合格。1967年卒業、長尾学術奨励賞授与。4年間の東京医科歯科大学医局員の後、1971年東京逓信病院呼吸器科に勤務、同年4月栄子と結婚。1988年より大田病院呼吸器科に勤務。1995年3月から2000年2月まで日本内科学会認定内科医。2014年10月逝去
佐藤栄子[サトウエイコ]
看護師として8年間勤務の後29歳の時佐藤信英と結婚。1977年千葉大学教育学部看護教員養成課程入学。卒業後同大学大学院看護学研究科修士課程入学。修了後聖母女子短期大学講師、日本赤十字看護大学・大学院准教授を経て1995年愛知県立看護大学・大学院教授。2003年藤田保健衛生大学・大学院教授・看護学科長。医学博士(名古屋大学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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