出版社内容情報
60年安保を国労青年部長として闘った著者による半生記。それはそのまま国労の左翼バネとして「革同」の秘史ともなっている。共産党の指示により64年「4. 17スト」に反対し、国労を追われた牧野はその後実業家として転進する。その波乱の半生。
内容説明
1960年代初頭、国労本部青年部長として活動し、その後、実業界に転進―。「アカい社長」とよばれた著者によるもう一つの「革同」史。
目次
第1章 生い立ち
第2章 国労運動と革同・共産党―五〇年代職場闘争・地域労働運動を駆け抜けて
第3章 安保闘争の嵐と国労本部青年部長の日々
第4章 決別への道程―運命の四・八声明
第5章 事業家として生きる
補章 革同―複数の焦点
第6章 西へ、東へ―事業の展開
第7章 国鉄分割民営化
第8章 有機農業への道―生命の根本へ
著者等紹介
牧野文夫[マキノフミオ]
1934年サハリンで生まれる。敗戦後3年して、北海道の留萌に引き揚げ。1951年、17歳で国鉄に就職。札幌駅の貨車連結の仕事に従事。国労運動に参加。共産党に入党。北海道の国労青年部運動の中心メンバーとして活動を展開。平和運動、安保闘争に積極的に参加。1960年から3年間、東京で全国の国労青年部長として活躍。1963年からは札幌に戻り、国労札幌支部の副委員長。しかし1964年、総評4・17ストライキをめぐる共産党の批判声明(4・8声明)をきっかけに、国労を除名処分。1970年頃、国鉄を退社。共産党離党。1970年代からは企業経営に転身。札幌での書店経営を経て、東京で「ユニオン交通産業株式会社」を設立し、社長に就任。国鉄関連のサービス事業を展開。国鉄を中心とした「アメリカに新幹線をつくる」事業構想(その後、この構想は挫折)でも活躍。また中国でも事業展開し、日中合弁企業を設立。日中技貿センターを設立し、日本企業の中国進出の橋渡しも行った。1985年頃、過労が原因で病に倒れて以後、有機農業家へ転身。2000年頃、北海道の洞爺湖に移住。そこを拠点に有機農業家として活動を継続(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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