この国は危ない―子どものことは子どもに習え

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この国は危ない―子どものことは子どもに習え

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  • サイズ B6判/ページ数 271p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784876720668
  • NDC分類 371.45
  • Cコード C0037

出版社内容情報

子どもを巡る問題について、常に子どもの側に居続ける2人が、2年半に渡って交わした往復書簡。大上段に振りかぶった論ではなく、日常の個人的な体験や感覚といった視点から事象を捉えていくその眼差しは、人間とは何かという問いを見据えている


はじめに 斎藤次郎

「ここ」を求めて

ミイラ取り的子ども研究 (第1信)
時間に調教されない子どもたち (第2信)
遊びをせんとや生まれけむ (第3信)
遊ぶ子どもの声を聞くこと (第4信)
音の脈絡 (第5信)
江戸アケミの 殺意 (第6信)
映画「アリス サンクチュアリ」の衝撃(第7信)
「ここ」を求めて (第8信)
空と海の間には (第9信)
奪われた「間」 (第 10信)

奇妙な夢

写真のなかの子どもたち
二人称の映像
シャドー・ワーク
子ども好きなおとな
奇妙な夢
不在の記憶
「忙しさ」からの脱却
「ヒマ、ヒマ、ヒマ」
真の快
うっすら不幸

求めるか、避けるか

「生きる力」
生命の質?
〈余して付き合う〉ことのむずかしさ
休み時間の側から
寄り道
普通でないルーズさ
普通ということ
求めるか、避けるか
百石と神戸と
後戻りできない時間

「一寸先は闇」を生きる

平成の代助
覚醒する父
書くことの力
「一寸先は闇」を生きる
神戸事件の少年と「十九歳の地図」
鬱屈の今昔
子どもは変わったか
アルツハ     
斎藤次郎・武田秀夫・芹沢俊介
[第一部]論考
「透明な存在」について 武田秀夫

[第二部]座談会

宙づりにされた時間 事実関係の推移
曖昧な事件像 衝撃力の根源
魂の決壊ということ 子どもは残酷か
加害者に向く関心 エロスと憎悪
死への陶酔 自己劇化とファンタジー
少年の多重人格性 震災という体験
日常性への戻り方 いのちに対するセンス
自分の気配を消す訓練 隠れ場所のない街
闘う流儀の解体 内なる暴力性の承認
子どもたちが感じたリアリティ オウム事件が開示したもの
寄り添うことばを探す 日常性と折り合いをつける道
殺意からの覚醒 不快感の自己制御へ
 
Ⅲ 武装する中学生

     ――「少年とナイフ」をめぐって
                     
斎藤次郎・武田秀夫・藤井誠二・芹沢俊介
[座談会]

少年は蕫物騒な存在﨟か 「保健室登校」への偏見
「突然キレる」という論理 蕫ムカつく﨟と蕫ガマン﨟はペア概念
不登校の子どもの変質 「ナイフと少年」の詩学
「子どもが悪い」と言えない社会 声掛け運動の

手紙という形式には、雑誌連載のような公開のものであってさえ、書くという職業的行為につきまとう緊張を弛めてくれる甘い魔力がある。目に見えぬ読者を全く忘れ去るわけではないが、当面は文通相手のことだけ考えていればいい。その気安さが、文体のみならず内容のディテールにまで及んで、ふだんはあまり書くことのない私的な体験や感想を、毎回書き連ねることになった。
 一冊にまとめるに当たり、連載の二年半分を読み直してみて、改めてそのことを思い知ることになった。全ては手紙の魔法のなせるわざである。無駄口の多いおしゃべり(しかも掛け合いの)に読者諸賢をつき合わせてしまうのは気が引けるが、論理の整合性ばかり気にかけて上すべりする理屈よりは、まだしもましではないだろうか。

コドモにとって、会ってうれしくなる大人、会って話をしたくなる大人は、いったい周囲に何人いるか。私がいまもしコドモだったら、少なくともこの本の二人には拒否しない。「なんだよー」とか言いながら、会ってやってもいいぜと思う。(石坂啓・談)

目次

1 「ここ」を求めて
2 奇妙な夢
3 求めるか、避けるか
4 「一寸先は闇」を生きる
5 子どもの消滅