内容説明
時代の先覚者・後藤新平は、関東大震災から半年後、東北帝国大学学生を前に、「第二次世界大戦を直観」した講演をした!―『国難来』。今われわれは後藤新平から何を学べばよいのか?
目次
国難来(内憂外患こもごも到る;現代的会議病と国難;第二次世界動乱の陰影 ほか)
普選に備えよ(普選ようやく成立;『国難来』を警告した;禍を転じて福となす大光明 ほか)
解説『国難来』を読む―後藤新平の「東西文化融合」の哲学(第一次世界大戦の戦後処理に、第二次世界大戦を直感;国家の私物化を克服する「大調査機関」構想;「東西文化融合」構想と自治の哲学)
著者等紹介
後藤新平[ゴトウシンペイ]
1857年、水沢(現岩手県奥州市)の武家に生まれ、藩校をへて福島の須賀川医学校卒。1880年(明治13)、弱冠23歳で愛知病院長兼愛知医学校長に。板垣退助の岐阜遭難事件に駆けつけ名を馳せる。83年内務省衛生局に。90年春ドイツ留学。帰国後衛生局長。相馬事件に連座し衛生局を辞す。日清戦争帰還兵の検疫に手腕を発揮し、衛生局長に復す。98年、児玉源太郎総督の下、台湾民政局長(後に民政長官)に。台湾近代化に努める。1906年9月、初代満鉄総裁に就任、満鉄調査部を作り満洲経営の基礎を築く。08年夏より第二次・第三次桂太郎内閣の逓相。その後鉄道院総裁・拓殖局副総裁を兼ねた。16年秋、寺内内閣の内相、18年春外相に。20年暮東京市長となり、腐敗した市政の刷新、市民による自治の推進、東京の近代化を図る「八億円計画」を提唱。22年秋アメリカの歴史家ビーアドを招く。23年春、ソ連極東代表のヨッフェを私的に招き、日ソ国交回復に尽力する。23年の関東大震災直後、第二次山本権兵衛内閣の内相兼帝都復興院総裁となり、再びビーアドを緊急招聘、大規模な復興計画を立案。政界引退後は、東京放送局(現NHK)初代総裁、少年団(ボーイスカウト)総長を歴任、「政治の倫理化」を訴え、全国を遊説した。1929年遊説途上、京都で死去
鈴木一策[スズキイッサク]
1946年、宮城県仙台市に生まれる。一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。哲学、宗教思想専攻。國學院大學、中央大学などで講師を務めた(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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