留岡幸助と備中高梁 - 石井十次・山室軍平・福西志計子との交友関係

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留岡幸助と備中高梁 - 石井十次・山室軍平・福西志計子との交友関係

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  • サイズ B6判/ページ数 310p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784860690991
  • NDC分類 369.021
  • Cコード C0021

出版社内容情報

新島襄、金森通倫、J.C.ベリー、二宮邦次郎、柴原宗助、赤木蘇平、留岡幸助、福西志計子、山室軍平、石井十次らが繰り広げた美しい理念追究の人間ドラマを紹介したのが本書である。

一章 新島襄と備中高梁
  1 新島襄と軍艦操練所
  2 備中松山藩の「快風丸」と新島襄
  3 同志社の設立と熊本バンド
  4 岡山ステーションの高梁伝道
  5 新島襄の高梁への伝道と高梁教会の設立
二章 明治初期 備中高梁における近代化の諸相
  1 近代化プロセスの局面とステップ
  2 備中高梁(客体)の社会構造
  3 西欧文化導入の諸相
  4 地域社会の文化変容
  5 キリスト教伝道への拒否反応
三章 留岡幸助の思想形成と備中高梁
  1 少年期の原体験
  2 キリスト教入信と受難
  3 同志社における留岡の思想形成と召命
  4 留岡幸助をとりまく備中高梁の人脈
  5 備中高梁にかかわる留岡幸助の人脈
  6 留岡幸助の思想形成と備中高梁
四章 留岡幸助の思想・行動とその特質
  1 留岡幸助の召命─監獄改良・教誨師
  2 留岡幸助における教育と自然環境
  3 教育の重視と家庭学校
  4 二宮尊徳思想との邂逅と地方改良運動
  5 留岡幸助の社会観・社会主義観に対する批判
  6 教育農場の建設と経営
五章 三人の先駆的社会事業家と備中高梁


はしがき
 備中高梁の吉備国際大学に勤めるようになった平成9年ごろ、大学では地元が生んだ偉人山田方谷についての研究が始められていたが、そこに集められた資料から、ここにはすぐれた教育文化の伝統が存在することが察知された。さらにその高梁において幕末から明治にかけての動乱期に二つの感動的な人間ドラマが展開されたことを知り、これに興味をそそられた。
 第一のドラマは、徳川幕府の崩壊に巻き込まれた佐幕藩の主従がたどった悲劇である。しかし幸い山田方谷等の献身的な働きによって、壊滅の惨劇は避けられた。家臣が身を挺して北国の果てから救い出し、自首して虜囚となった君主は許された後、死の間際に「あの世でも側にいてほしい」と家臣(川田剛)に遺言した。その家臣も7年後、主君の墓の側(東京駒込吉祥寺)に葬ってほしいと言い残して逝った。二人は結びついて永遠に離れることはない。幽明の界を異にしてもなおゆらぐことのなかった「君臣の絆」は時空をこえて限りなく美しい。
 さて山田方谷は人倫の根本として「至誠惻怛」を説いた。誠をもって人に仕え、慈しみの心を持って人に接し、私利を捨てて人を救うことこそが最善の生き方であると教えた。この「惻怛」老院に提出している。このように、岡山県独自の活発な活動がなされたが、やがて県令の圧力によって、この運動も次第に下火になっていった。
 第二の西洋医学については、岡山の米国コングリゲーション教会のミッション・ステーションに在任していた宣教医師J・C・ベリーと高梁の開業医赤木蘇平の協力によって導入された。まず、仮診療所が設けられ、続いて私立高梁病院が設立されたが、これは当時県立岡山病院につぐ設備の整ったものであったといわれている。
 第三に近代化の三点セットの中で、ことのほかキリスト教の伝道が高梁に最も大きな影響を与えていたといえよう。高梁へのキリスト教の最初の伝道者は、熊本バンドのリーダーで同志社を卒業し、岡山教会の牧師を務めていた金森通倫(明治12年10月)であるが、さらに決定的な衝撃を与えたのは、新島襄(明治13年2月)の説教であった。新島襄は、備中松山と親戚藩であった群馬県の安中藩士であったが、江戸から備中玉島港へ、次いで箱館への回航も備中松山藩の快風丸によるものであり、さらに箱館からの脱出国を助けたのも松山藩士たちであった。新島はその恩返しに大いなる福音(キリスト教)を高梁の人々に伝えたのである。新島の説br> 町人の家に育った留岡幸助は、明治13年ごろ「士族の魂も町人の魂も赤裸々になって神様の前に出る時は同じ値打ちのものである」との説教に感動して信者となり、15年7月受洗した。彼を信仰に導いたのは、赤木蘇平医師であった。彼は同志社に学んだが、天職として監獄の改良運動を選び、北海道の空地集治監の教誨師となったが、そこの囚人との面接から不良少年の感化事業の重要性を悟り、東京巣鴨と北海道遠軽に「家庭学校」を創った。豊かな能力に恵まれながら、世俗の栄達には見向きもせず、ひたすら世の底辺を照らした留岡の崇高な生きざまは、筆者の魂を限りなく魅惑し続けている。
 備中哲多町出身で明治28年に救世軍に身を投じ、遊郭の女性の解放運動など留岡と同じ社会事業に献身した山室軍平は、明治22年17歳の若さで初めての路傍伝道に立ったのが高梁であったし、翌23年と27年にも高梁基督教会で伝道している。山室にとって高梁教会は信仰の故郷であった。また山室軍平は、留岡幸助の父金助がキリスト教嫌いから回心して信者となる過程の生き証人でもある。誠に二人は不思議な縁で結ばれた心友であった。
 調査を始めたころ、岡山孤児院の石井十次が高梁教会と関係があるとは思っ、柴原宗助、赤木蘇平、留岡幸助、福西志計子、山室軍平、石井十次等が繰り広げた清冽で美しい第二の人間ドラマを追跡し再構成したのが本書である。筆者が魅惑されてやまない理念追求のドラマである。


岡山県高梁市が生んだ偉大な社会事業家・留岡幸助と、高梁ゆかりの先駆的社会事業家たちとの崇高で熱い絆を描いた1冊。山田方谷の「至誠惻怛(ルビ:しせいそくだつ)」(福祉と奉仕の理念)は、岡山・高梁市で受け継がれていたのである。