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内容説明
江戸時代中期の思想家・浅見絅斎(あさみけいさい)が三年の歳月をかけて執筆した『靖献遺言』―それは忠義に命を懸けた八人の大陸の男たち「屈原、諸葛孔明、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺」を描いた評伝であった。なぜ絅斎は、日本ではなく、中国の忠臣義士について書くことにしたのか。なぜ現在、封印された書となっているのか。そして、同書にはなにが描かれているのか。勤王の志士、神風特攻隊員に愛読された『靖献遺言』を口語訳し、解説する。
目次
第1部 封印された尊王思想書『靖献遺言』の謎(山崎闇斎と浅見絅斎の師弟決別;靖献遺言とは、「君主に仕えて忠義を尽くした義士が残した最期の言葉」)
第2部 『靖献遺言』を読む(国が亡びるのを黙って見ているくらいならいっそ死んだほうがましである(屈原)
今より以後、諸君のなかで、国家に忠誠を誓う者は、遠慮なく私の過失を責めてくれ。そうすれば、天下の大事も定まり、賊は滅びるであろう(諸葛亮孔明)
わずかな給料を得るために、官職についてへいこらしていられるか。仕官の誘いもあったが、二君に仕えることはできない。私は仮住まいたるこの世を辞して、永久に本宅たるあの世へと帰る(陶淵明)
君命である。臣下たる者、どのような事があっても君命を避けることはできない(顔真卿)
王朝の危機に際し一騎として馳せ参じる者がいない。私はこれを深く恨む。だから私は、自分の非力を省みず、身命を賭して祖国を守ろうとするのだ(文天祥)
孝孺は死の間際になっても、燕王(永楽帝)の不義を罵り続けた。燕王は周囲の者に命じて、孝孺の口を刀で抉らせた。口は耳まで裂かれ、血が流れた。それでも、孝孺は燕王を罵倒した。七日間、その声が聞こえた(謝枋得/劉因/方孝孺))
著者等紹介
浅見絅斎[アサミケイサイ]
1652~1712年。江戸時代の思想家、学者。近江国(今の滋賀県)に生まれる。初め医者を志すも、学問の世界に入り、著名な儒学者・山崎闇斎の弟子となる。闇斎死後は、私塾を開き、弟子の教育にあたる。尊王を唱えた絅斎は、大名に仕官せず、終生、在野にあった
濱田浩一郎[ハマダコウイチロウ]
1983年生まれ、兵庫県出身。歴史学者、作家。皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員・姫路日ノ本短期大学講師・姫路獨協大学講師を歴任。現在、大阪観光大学観光学研究所客員研究員。現代社会の諸問題に歴史学を援用し迫り、解決策を提示する新進気鋭の研究者(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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ゆうきなかもと