出版社内容情報
『越境と抵抗』という一冊は、現代民俗学の可能性の追究者でありつづけた小川徹太郎の仕事の結晶である。
これはもっとも誠実な意味で、「民俗学」である。いまだ文字にされていない人々の経験の小さな声に耳を傾け、書かれているというだけで流布した常識に抵抗しつつ、図式に囚われた目が見つめることがなかった生活者の実践を見いだし、共有すべき知識の世界に解き放とうと歩く。そうした志が、この本を支えているからだ。
従来の民俗学が、「常民」に象徴されるように、民衆の力に期待するあまりに「調和モデル」に陥ってしまった限界を、小川は文化批判の思想に学びつつ、乗り越えていこうとした。調和モデルは、社会的な対立や葛藤の否定や「抹消」を前提とし、また容認し、再生産してしまう。小川は先取りされた調和に依存せず、現存する違和にこだわり、その声に耳を傾け、細部を描きだそうとする。
読んで教えられることは多くあるが、有効な切り口の一つは、文字の文化に対する身体の抵抗である。文字(帳面・図表・試験など)を操る者たちの「無理解」に対して、海の現場を生きてきた漁師たちが抱く、うまく言葉にならない不信に光をあてる。それはまた、学校という国家装置が囲い込んでしまった「民間」の領域の発掘でもある。生活を語るそれぞれの声の、裏側に散在する抵抗に出会い、その力を見届けるためにこそ、彼のフィールドワークがあった。その一方で小川は、異なった生活を営む者が、少数者に作りあげられ、少数者として遇されてしまう、制度としての「近代」の問題を鋭く問うていく。
出職漁師、水上生活者、ニゴ屋、『浮鯛抄』、サリサリストアー、海国思想等々……、この本が切り開いてくれる知識の世界は広い。しかし、それ以上に、歩いて、聞いて、ねばり強く考える。その作法を読者としてたどり、学べることにこそ、この本の魅力がある。(佐藤健二 東京大学教員)