内容説明
戦国時代から江戸幕府成立にいたる一六~一七世紀、石見銀山が産出した大量の銀は中国、東アジアへと広く流通し、当時ヨーロッパで描かれた地図にも「銀鉱山王国」と記された。「石銀(いしがね)千軒」とよばれるほど栄えた鉱山町を発掘調査が明らかにする。
目次
第1章 「銀鉱山王国」
第2章 銀山のひろがりと歴史
第3章 姿をあらわした鉱山町
第4章 生産と暮らしのようす
第5章 銀生産の実態解明へ
第6章 石見銀山の終焉と未来
著者等紹介
遠藤浩巳[エンドウヒロミ]
1960年、島根県生まれ。島根大学法文学部文学科歴史学専攻卒業。現在、大田市役所勤務。1989年より大田市教育委員会文化財技師として発掘調査等を担当(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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月をみるもの
16
考古学と鉱山の両方を愛するものにとって、両者をまとめて堪能できる鉱山遺跡は魅惑的としか言いようがない。明治になってから開発されたところは、遺跡と呼ぶにはちょっと新しすぎるので江戸時代以前に限定しよう。それでも佐渡の金・別子の銅など有名どころはいろいろあるが、チャンピオンはやはりここ石見の銀山であろう。それまでは通貨(銅銭)すら中国からの輸入に頼っていた国が、この石見(+生野もか)銀山の開発とともに、メキシコと並ぶ世界通貨=銀の輸出国として世界史の表舞台に登場することとなった。2024/03/30
うしうし
7
(メモ) ◎石見銀山は16世紀後半、ヨーロッパで作成された地図に「銀鉱山王国」・「銀鉱山」と記される。 *オルテリウス「タルタリア(韃靼)図」に「Minas de plata(銀鉱山)」の表記(p4~5) ◎天正18年(1590)の「石見国図」に仙ノ山周辺に建物が軒を連ねた様子が描かれる。山吹城には三重天守の表現。 ◎正保2年(1645)の「石見国図」には仙ノ山と要害山を囲む柵列が描かれる(p26)。2019/04/13
rbyawa
1
e301、そこまで古くは遡れないものの、どうも鉱山開拓以前から自然銀山だったのではないかと推測されているこの石見銀山。戦国から明治初期くらいまでの間の採掘が行われていてそのわりに政治の話があんまりないな、と思っていたんですがどうもいろんな権力者の手を渡り歩いたみたいだね。そのせいか中の設備もしばしばの変更が行われていたようで、でもトンネル技術に関してはだいぶ傑出してるというか統一性があるみたいだよねぇ、タタラとは独立した集団ではないか、と言われていたんですが。タタラと比べてもあんまり研究進んでないっぽい。2014/10/28
onepei
0
写真を見る限り調査が進んで、むかし行ったときとすっかり変っていて驚いた。また行かねば。2013/11/10
tnk
0
石見銀山というテーマが壮大すぎるのと、分かりやすい遺物遺構の少なさから、この薄さにまとめる難しさを感じた。2024/08/06