内容説明
表現を規制することはどこまで許されるのか?「あいトリ」と「宇崎ちゃん」から考える表現の自由。
目次
1 「あいちトリエンナーレ」事件の何が問題なのか
2 実際に「あいトリ」の作品を見てみる
3 「行政の中立」とは何か
4 「宇崎ちゃん」献血ポスター事件を考える
5 女性を性的対象として見ることは問題なのか
6 ポリコレ棒を心の中に
終章 不快な表現にどう向き合うか
著者等紹介
紙屋高雪[カミヤコウセツ]
1970年愛知県生まれ。ブロガー。マンガ評・書評サイト「紙屋研究所」の管理人(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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アナクマ
28
(118)思想の自由市場→ 各人が自己の意見を自由に表明し、競争することによって、真理に到達することができる(その真理が、みずからを容認させる力をもっているかどうかの判断を委ねる機会)◉(193)多様性は、自由を一定規制することで維持されている(ただし強者に対する規制)。社会の自己治癒力の発揮を待つためには、思想の自由市場の健全さを維持しなければならないし、そのためには、不快な表現を当面耐え忍ぶというコストもかかる。◉ヘイトスピーチ規制は、自己治癒力が働かなくなった/間に合わなくなった結果である。2020/08/30
ロア
26
「人権」や「差別」という点で問題があれば法律や条例を作って表現を規制してもよい、という安易な風潮。「思想の自由市場」の健全さを維持しながら、差別の不見識を正す「社会の自己治癒力」が発揮されるには、自分達にとって不快な表現であっても、それを多様性維持の為のコストとして受け入れることが必要。権力側からの「規制」が生まれてしまうというのは社会の自己治癒力が働かなくなった結果であり、それは思想の自由市場の敗北だ。安易な「規制」は、いつか自分たちの首を絞めることになる。2020/06/07
Narr
14
あいちトリエンナーレ2019での「表現の不自由展・その後」や「宇崎ちゃん」ポスターを巡る問題をあくまで表現の自由から考察するといった内容。一般書。結論としては「思想の自由市場」を守るためにも不快な表現には批判で向き合っていこう、安易な規制も行政による中立的でない表現との関わり方もご法度だ、という所でしょうか。その関わり方は表現の自由の壊れやすさを鑑みれば最もです。ただ、あいトレに関しては筆者の主張する旨に全面的に賛同しますが、「宇崎ちゃん」ポスターに関しては(筆者の語り方に)少々思うところがありました。2021/03/22
たろーたん
8
あいちトリエンナーレの表現の不自由展に関して、「税金を使うものには表現の自由はないのか」ってのが一番印象深かった。確かに、学問の自由だって大学は税金を使ってるけど、「政府批判をするようなものはナシ」なんてならないし、あんなものは芸術じゃないと言うのならデュシャン『泉』なんかもっと芸術じゃないし。自分の中のモヤモヤが少し晴れた気がした。(続)2023/06/15
ニコ
8
社会の自己治癒力を育てる、と言う考え方が良かった。人それぞれのポリコレ棒を持つ、というのは、なかなか難しいのを実感している。きちんと内側に持っておきたいとは思うけど…2020/06/07