内容説明
40ノットの高速で敵艦艇を襲う魚雷艇―戦艦・空母など大型艦艇の建造・運用では世界一流を自負していたはずの日本海軍が、なぜ排水量わずか20トン程度の木造艇を、戦場において活躍させられなかったのか。魚雷艇王国・アメリカのPTボートや直接手本としたイタリアのMAS艇、ドイツのSボートなどと比較しつつ、日本魚雷艇の歴史と問題点を探る海軍技術史。
目次
第1部 日本海軍魚雷艇建造史(魚雷艇開発の契機;魚雷艇建造の歴史;国産艇の開発と建造;伊藤高技術中尉の自決;七一号六型エンジンの量産;特攻艇「震洋」)
第2部 日本海軍魚雷艇隊戦闘記録(第二五、第一二魚雷艇隊比島戦記;日本防衛部隊の戦記)
第3部 アメリカ海軍の魚雷艇(マッカーサーと魚雷艇;米国魚雷艇の開発と建造;兵装とエンジン;魚雷艇隊の編成と基地;戦後の魚雷艇と隊員たち)
著者等紹介
今村好信[イマムラヨシノブ]
大正8年12月3日、愛媛県上分町(現・川之江市上分町)に生まれる。県立三島中学校、松山高等学校理科乙類を経て、昭和17年9月、東京帝国大学工学部機械工学科を卒業後、株式会社日立製作所に入社。同10月、海軍短期現役技術科士官を志願、見習尉官を経て造機技術大尉として服務、呉海軍工廠造機部機械工場、艦政本部5部、海軍軍需局を経て、昭和20年9月、敗戦により予備役編入。同年11月、日立製作所茂原工場(電子管)に復職。昭和39年9月、茂原工場長、以後、青梅工場長(照明管球)、電子管事業部長、半導体事業部長、取締役電子事業本部長を経て、昭和52年6月、日立機電工業株式会社専務取締役として転出、昭和54年6月、取締役社長、以後、相談役、名誉相談役となる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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