出版社内容情報
「国民政府を対手にせず」。盧溝橋事件から日中戦争の泥沼化、第二次世界大戦の勃発、太平洋戦争、そして敗戦。近衛文麿内閣の書記官長・司法大臣として対中国政策の渦中にあった政治家・ジャーナリストが遺した日記・回想記など資料34編(1936-1947)。政治史・軍事史はじめ、昭和史研究にとっての画期的資料を、ここに公刊。
本書は「第一部 日中戦争と近衛内閣」「第二部 アジア・太平洋戦争と敗戦」および「付録 手記「信毎時代」」から成る。
第一部は、昭和11年8月の中国旅行の回想から、翼賛選挙への出馬を見送った昭和17年6月までの日記・手記、関係資料を収録した。この時期の風見は、第一次近衛内閣で内閣書記官長、第二次近衛内閣では司法大臣に就任し、昭和15年の新体制運動ではその推進役として活躍するなど、政界の最も中枢に位置した政治家の一人であった。風見の政治家人生の中でも最も激動に満ちた時代でもある。
第二部には、昭和17年1月から敗戦後の昭和22年3月までの日記・手記・論考を収録した。昭和17年4月の翼賛選挙への立候補を断念し、在野の人間として過ごした時期の記録である。政局に関する記述は、日ソ関係の論考などを除くと少ないが、それに代わって、戦時下の家族の生活や社会情勢・世相に関する記述が増える。迫真の事実記録であり、鮮かな情勢分析となっている。
「付録」は信濃毎日新聞の主筆時代、大正11年夏頃から昭和2年の回想録で、風見の見た関東大震災の現場報告は、貴重かつ圧倒的な臨場感あふれる記録である。
長年のあいだ風見章とその私設秘書・志冨靭負の遺族のもとに所蔵されていた関係文書が、2007年に早稲田大学大学史資料センターに寄贈されたことで、本書の刊行が可能になった。
目次
第1部 日中戦争と近衛内閣(手記 中国旅行回想(昭和十一年八月‐十二年一月)
手記 第一次近衛内閣時代(昭和十一年十一月‐十四年一月)
手記 「回想記」(昭和十二年一月‐十三年四月)
手記 「昭和十三年五月 秘録 志冨靱負記」(昭和十三年三月‐十一月)
風見章言行録(昭和十四年) ほか)
第2部 アジア・太平洋戦争と敗戦(手記(昭和十七年一月‐十八年七月)
日記(昭和十七年七月‐十八年七月)
日記 「閑居雑記 昭和十八年八月一日」(昭和十八年八月‐十九年三月)
日記 「昭和十九年四月起」(昭和十九年四月‐十二月)
論考 「ソ聯と太平洋戦争との関聯についての若干の考察」(昭和十九年九月二十七日) ほか)
付録(手記 「信毎時代」(大正十一年夏頃‐昭和二年))
著者等紹介
風見章[カザミアキラ]
1886‐1961。1886年2月茨城県水海道町高野に生まれる。水海道中学を経て、1905年4月早稲田大学高等予科入学、1909年7月同大学部政治経済学科政治専攻卒業。1913年1月中野正剛の推薦で大阪朝日新聞社に入社。国際通信社などを経て、1923年1月信濃毎日新聞社主筆。1928年2月普通選挙制最初の総選挙に茨城三区から立候補するが落選。1930年2月の総選挙で当選。以後1937年4月まで連続4回当選した。当初立憲民政党に所属したが、満洲事変後の協力内閣運動を機に脱党、1932年12月国民同盟結成に参画した。1937年1月国民同盟脱退。1940年近衛を中心に新体制運動を開始、同年7月の第二次近衛内閣では司法大臣に就任した。1947年公職追放(1951年6月解除)。1952年10月の総選挙に無所属で立候補し当選。戦後は、憲法擁護国民連合の代表委員として平和憲法擁護運動に取り組むとともに、中国との国交回復に尽力した。1961年12月死去
北河賢三[キタガワケンゾウ]
1948年生、早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得。現在、早稲田大学教育・総合科学学術院教授
望月雅士[モチズキマサシ]
1965年生。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得。現在、早稲田大学教育学部非常勤講師
鬼嶋淳[キジマアツシ]
1974年生。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学、博士(文学)。現在、佐賀大学教育学部准教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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